百済文化圏遺跡の学術調査

重要な先史、歴史遺跡に関する学術調査の企画を行っており、国が保護している史跡の整備・復元のための調査、史跡指定のための事前調査なども担当している。また、開発や盗掘による損傷、滅失の恐れのある遺跡、地域住民による苦情の余地のある緊急事案の遺跡も調査している。

益山王宮里遺跡

百済文化圏主要遺跡学術調査および遺跡整備事業の一環として、1989年から毎年調査が行われ、築石の城壁の規模が南北492m、東西234mの大規模の王宮および寺院関連施設であることが判明し、城壁と関連した門址、排水溝、暗渠、布石施設などの地下遺構が確認された。銘文瓦、蓮華文瓦当、坩堝など計3,000点余りの重要遺物が出土した。調査の結果、『三国史記』、『東国輿地勝覽』などの文献記録に符合する事実が部分的に確認されたが、遺跡全体の性格は、具体的には把握し切れていないのが実情である。2004年から益山・王宮里遺跡に関する第4次5ヶ年計画を樹立し、調査の足りない部分、全く行われていない部分に対する発掘調査を体系的に行い、この遺跡の考古学的性格とその歴史的意味を探ろうとしている。

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遺跡名 益山・王宮里遺跡
区分 遺跡発掘調査
調査期間 1989年~現在
調査資料 原文資料有り

益山・王宮里遺跡(史跡第408号、1998.9.11指定)は「王宮坪(ワングンピョン)」、「ワンゴミ」、「ワングムソン」と呼ばれ、古代の王宮だったと推定されるので学界はもちろん、一般の人々も関心を寄せてきた。歴史的には百済末期から統一新羅時代まで、ここは政治的、軍事的な要地だったことが 『三国史記』などの文献によって知られており、馬韓の箕準(キジュン)王遷都説、百済・武(ム)王の金馬遷都説または別都説、統一新羅時代の安勝(アン・スン)の報徳国都城説、後百済の甄萱(キョン・フォン)の都城説など、古代王宮と関連した様々な学説が持続的に提起されている。1965年の王宮里五重石塔(国宝第289号、1997.1.1指定)が解体・復元された時、塔の中から高麗時代のものと推定される金製金剛経板、硝子製舍利瓶、金製盒、各種荘厳具などが発見され、国宝第123号に指定された。塔の周辺からは「上部乙瓦」、「官宮寺」などの銘文瓦が出土した。これを受け、この寺院跡が王宮と関連のある王宮内寺院であった可能性が提起され、遺跡の性格に対する謎が深まっている。

益山・王宮里遺跡は、百済文化圏遺跡整備事業の一環として1989年から2012年末まで、文化財研究所(扶余文化財研究所)により毎年調査が行われた。調査の結果、百済の泗沘時代の王城の構造や性格が明らかになった。東西240m、南北490mの城壁に取り囲まれ、平面は長方形であることが確認された。城壁の関連施設としては門址7か所をはじめとし、溝、暗渠なども発見された。東西の擁壁4を基準に区画された前半は宮殿、後半は後苑であり、宮殿領域には7×4間規模の建物址や瓦積み基壇の建物址が見つかった。東西の擁壁4と隣接した庭園施設が確認されており、後苑領域では大規模の水路施設(環水溝、曲水路)が発見された。その他、工房址などの生産施設、石塔・金堂・講堂址などの寺院施設もあった。遺物は、首府銘の印章瓦、蓮華文軒丸瓦、中国製青磁、瓦製の煙突の屋根など約7,000点の遺物が出土した。

image 王宮里遺跡の全景(航空撮影)
image 南壁東側の門址盛土層の全景
image 東壁の築造状態
image 東西築石1築造状態
image 大型建物址周辺の全景(航空撮影)
image 1棟2室の建物址の全景
image 瓦積み技法の連結施設の全景
image 後苑の全景(航空撮影)
image 庭園中心部の全景
image 庭園出土の庭園石
image 西北側地域の大型築石排水路周辺の全景
image 大型トイレ1の全景
image 大型トイレ1出土の後処理用木の棒
image 西北側地域工房出土の硝子生産関連遺物
image 西北側地域工房出土の金生産関連遺物
image 寺院関連施設の全景(航空撮影)
image 王宮里5重石塔から発見された舎利荘厳具一括
image 王宮里遺跡出土遺物一括
image 環水溝、曲水路の全景
image 後苑領域の全景

調査期間
年次 調査地域 調査内容 備考
第1次5ヶ年
(1989〜1993)
五重石塔周辺および寺域の東·西·南側一帯(約31,000㎡) ・金堂址、講堂址、瓦窯跡、築石など
・銘文瓦など1,570点
報告書を発刊(1992年)
第2次5ヶ年
(1994〜1998)
五重石塔周辺および東·南·北側城郭角地域(約20,000㎡) ・築石、建物址、城壁基礎部など
・蓮華文瓦当など481点
報告書を発刊(1997年)
第3次5ヶ年
(1999〜2003)
西城壁および西北壁の城内一帯(約26,000㎡) ・門址、城壁、工房址など
・蓮華文瓦当など891点
報告書を発刊(2001、2002年)
2004 第16次 西北側一帯(2,000㎡) ・大型トイレ、工房址など
・印章瓦49点
益山市代行事業第1次 5重石塔周辺(23,000㎡) ・東西築石3・4、庭園など
・中国製青磁片など203点
2005 第17次 東壁一帯(2,400㎡) ・東壁、敷石施設など
・灯盞など111点s
益山市代行事業第2次 5重石塔周辺(22,000㎡) ・大型建物址など
・印章瓦など254点
2006 第18次 車輪の跡および庭園周辺地域(4,100㎡) ・車輪の跡、庭園など
・印章瓦など57点
報告書を発刊-2006
益山市代行事業3次 5重石塔周辺(9,000㎡) ・南壁中央門址など
・印章瓦など26点
2007 第19次 庭園北側地域(4,000㎡) ・庭園水路施設など
・庭園の造園石など148点
益山市代行事業第4次 西壁中央部の内側(4,000㎡) ・西壁門址、階段施設など-茶缶など172点
2008 第20次 庭園北側丘陵地域(4,000㎡) ・曲水路、水路施設など-印章瓦など73点 益山市代行事業第5次
益山市代行事業第5次 南·東壁の内外側地域(4,000㎡) ・盛土層、東壁の溝など소문軒丸瓦など129点
2009 第21次 庭園北側の丘陵頂上部地域(4,000㎡) ・曲水路、水路施設など-印章瓦など15点 国際学術大会-2009
益山市代行事業第6次 東壁中央部地域(4,000㎡) ・東壁門址、石列施設など-印章瓦など23点
2010 第22次 東壁中央部および庭園北側の丘陵地域(3,000㎡) ・環状溝、建物址、東壁など-印章瓦など108点 報告書を発刊-2010
益山市代行事業第7次 北壁一帯(4,800㎡) ・環状溝、北門址など-銘文瓦など570点
156,500㎡(重複を含む) 金堂址、講堂址など遺構92基-銘文瓦など遺物4,769点 ・中間報告書7冊
・国際学術大会1回

2013~2014年度には未調査地域および整備・復元のための資料を確保するために、体系的でかつ精密な発掘調査を行う予定である。とくに、後苑領域に対する調査を完了し、2014年には城壁の外側を調査することにより、王京の存在について究明していく。


調査内容
年次 調査対象地域 調査面積㎡ 予算(百万ウォン) 備考
2012(第24次) 丘陵頂上部の北側 8,000 400
2013(第25次) 北壁の内側地域 8,000 400
2014(第26次) 城壁の外側地域 10,500 400 王京の存在について究明
城壁の外側地域 26,500 1,200


扶余・王興寺址

扶余・王興寺は『三国史記』、『三国遺事』などの文献に創建(法王2年、西暦600年)と完工(武王35年、西暦634年)の関連記事が記載されている百済時代の重要な寺院であり、1934年、扶余・窺岩面・新里一帯で王興銘の瓦片が収拾されたことにより、この地域は王興寺の位置として比定された。1946年、ここから高麗時代の石造仏坐像1躯が発見され、国立扶余博物館へと移転された。その後、王興寺の重要性が認められ、1982年に忠清南道記念物第33号に指定された後、さらに史跡第427号に指定(2001.2.5、指定面積200,170㎡)された。これを受け、国立扶余文化財研究所は2000年から発掘調査計画を樹立し、現在まで8回にわたる発掘調査を行った結果、高麗時代の建物址、百済寺院の伽藍配置を示す木塔址・回廊址・擁壁・進入路などが確認され、寺域の東の外郭地域では百済および高麗時代の瓦窯跡11基が発見された。

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遺跡名 扶余・王興寺址
区分 遺跡発掘調査
調査年 2000年〜現在
調査資料 原文資料有り

2012年には2004年、2009年の調査によりその存在や規模が確認された金堂の西側に位置する西建物址と、寺域の西側一帯の建物址に対する調査が進められた。西建物址は、南北の長さ44.45m、東西の幅12.6mの長方形の建物址であり、内部は建物の中央および北側の内部から確認された中心部の四方と、連続した基礎から考えて建物の東と西に四方5mの部屋が設けられた母屋があったと推定される。母屋は建物址の南にまで続き、8部屋によって構成されたと考えられる。

また、寺域の西側の建物址は東西32.4m、南北34.8mの規模であり、寺域西側の境界にある基盤に隣接して建てられていた。石材で仕上げられた建物の内部からは石列6基が見つかっており、区域毎に上部構造の異なる施設が構築されたと思われる。


調査内容
年次 調査期間 調査地域 面積 調査内容 出土遺物
第 1次 2000.09.08~ 11.02 寺域北東側 1,000㎡ 寺域から外れた地域では遺構は確認されず 蓮華文軒丸瓦など
第 2次 2001.10.05 ~ 12.07 寺域北側 2,000㎡ 高麗時代以降の建物址6棟、百済時代の建物址の一部を確認 鬼面文滴水瓦など
第 3次 2002.03.28 ~ 07.17 寺域北側、
寺域南側
6,600㎡ 寺域北側の再調査の際、階段址と築石を確認、東回廊址・木塔址の一部・東西築石を確認 銘文瓦など
第 4次 2003.10.14 ~ 12.12 寺域南東側 1,000㎡ 西回廊址など百済の建物址2棟、東西の築石を確認 蓮華文軒丸瓦
第 5次 2004.04.16 ~ 06.29 寺域南西側 1,000㎡ 西回廊址の東側の内部を調査、東西の築石の範囲を確認 蓮華文軒丸瓦·垂木先瓦·塼など
第 6次 2005.10.10~ 11.30 寺域東側 4,032㎡ 百済時代の瓦窯跡3基を確認 蓮華文軒丸瓦·灯盞など
第 7次 2006.04.05~ 10.31 寺域東側 1,022㎡ 百済の瓦窯跡11基、高麗の瓦窯跡1基を確認 蓮華文軒丸瓦·「王興」銘瓦など
第 8次 2007.03.28~ 11.26 寺域中心部、寺域南側 3,300㎡ 木塔址と東西の築石および南北の築石を調査 舎利器および舎利供養具、垂木先瓦など
第 9次 2008.03.17~ 10.10 寺域中心 1,300㎡ 百済時代の伽藍を確認、金堂址・木塔址 蓮華文軒丸瓦など
第 10次 2009.03.09~ 11.09 寺域中心 2,300㎡ 講堂址および西側付属建物址を確認、金堂址左右の建物址の規模を確認 蓮華文軒丸瓦、鴟尾など
第 11次 2010.04.28~ 12.31 寺域西側外郭 15,552㎡ 寺域の西側の南北の擁壁、進入施設を確認 蓮華文軒丸瓦、鴟尾など
第 12次 2011.4.25~ 9.30 寺域東側 2,274㎡ 百済時代の瓦窯6基を確認 蓮華文軒丸瓦など
第 13次 2012.4.5~ 11月 寺域西側 2,874㎡ 西建物址、寺域西側一帯の建物址(推定)を確認 喇叭、油皿など

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image 2004年度発掘調査遺跡の全景
image 文様塼の出土状態
image 窯跡の全景(南)
image 第1号窯(南)
image 第3号窯(南)
image 王興寺址木塔址の全景
image 東西築石の全景
image 木塔址および築石の全景
image 木塔址の全景
image 木塔址心礎石の露出状態
image 舎利空間における石材蓋の露出状態
image 石材蓋の開封後における舎利箱の露出状態
image 青銅舎利箱および金・銀製舎利瓶
image 青銅舎利箱の銘文
image 銘文の細部
image 鎮壇具一括
image 塑造装飾
image 第11次発掘調査西側境界区域の全景航空写真)
image 第11次発掘調査西側境界区域の擁壁の角の部分
image 西建物址の全景
image 寺域西側の建物址の全景

扶余・定林寺址

扶余定林寺址(史跡第301号)は、忠清南道・扶余郡・扶余邑・東南里254番地一帯に位置する百済時代の寺院遺跡であり、現在の寺域内に扶余定林寺址五重石塔(国宝第9号、1962.12.30)と扶余定林寺址石仏坐像(宝物第108号、1963.1.21)が存在し、それぞれ国宝と宝物に指定・管理されている。また、現在までの発掘調査により明らかになった蓮池・中門・金堂・回廊址などが整備されているので、観覧しやすい環境が整えられている。

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遺跡名 扶余・定林寺址
区分 遺跡発掘調査
調査年 2008年~2010年
調査資料 原文資料無し

五重石塔の1層の塔身には660年8月15日、唐の蘇定方による勝戦記功「大唐平百済国」が刻まれ、碑文の最後に「刊玆宝刹用紀殊功」と称したことが記されている。石仏坐像は定林寺址講堂址に位置し、高麗時代に建て直された際に安置された本尊仏であったと推定される。

寺院の名が定林寺址と呼ばれるようになったのは、日本の植民地時代、講堂址の周辺から「大平八年戊辰定林寺大蔵唐草」という銘文のある高麗時代の瓦片が出土した以降であり、これを考え合わせると、この寺院は少なくとも高麗時代の顕宗(ヒョンジョン)の代(在位:1009~1031)まで法灯を伝えていたことが分かる。

一方、現在まで扶余・定林寺址に対する発掘調査は1942〜1943年、朝鮮総督府により寺院跡全域にわたり行われ、1979〜1984年まで忠南大学博物館・扶余博物館・文化財研究所により寺院跡全域および蓮池について行われた