伽倻文化圏の遺跡調査研究

重要な先史、歴史遺跡に対する学術調査を実施しており、国家が保護している史跡の整備・復元のための調査や、史跡指定のための事前調査も行っている。また、開発や盗掘による損傷、滅失の恐れのある遺跡、地域住民による苦情の余地のある緊急事案の遺跡も調査している。

昌寧・霊山古墳群

遺跡名 昌寧・霊山古墳群
時代 Three Kingdoms Period
指定 慶尚南道記念物第168号
調査年 2010年 ~ 2011年

昌寧・霊山古墳群(慶尚南道記念物第168号)発掘調査は、昌寧郡・霊山面・東里および竹紗里一帯に分布しており、校洞古墳群、松峴洞古墳群、桂城古墳群とともに昌寧地域を代表する古墳群である。2003年、(財)慶尚南道文化財研究院が精密地表調査を行った結果、直径20m以上の大型墳墓をはじめとする古墳53基が確認され、そのうち損傷の酷い大型の廃古墳1基およびその周辺を対象に発掘調査や墳墓の復元など基礎整備事業を昌寧郡と共同で進めている。

今回は、非火伽倻圏の主な古墳群である霊山古墳群におけるはじめての発掘調査が行われ、古代昌寧地域の文化・社会像を究明する上で重要な資料を提供すると期待されている。


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昌寧・校洞古墳群

遺跡名 昌寧・校洞古墳群
時代 三国時代
指定 史跡第80号
調査年 2009年 ~ 2010年

昌寧・校洞古墳群(史跡第80号)の発掘調査は1918〜1919年の日本の植民地時代(9基を調査)と1992年の東亜大学による発掘(5基を調査)以降、18年ぶりに行われた。昌寧郡が「校洞古墳群駐車場整備事業」を行っていた際に古墳の存在を確認し、遺跡保存の重要性を考慮して2009年から2010年まで発掘調査を実施した。調査の結果、墳丘の直径が19mに達する中・大型の橫口式石室墳1基と朝鮮時代の建物址などが確認された。この墳墓は長軸が6.7mに達する細長方形であり、遺物の副葬間と屍床台(遺体を安置する場所)、殉葬の空間などがある。この墳墓の主は管玉、銀製腰帯、素環頭大刀を身に付けており、副葬間からは様々な土器類、馬具類、殉葬者の人骨片などが出土し、古代の埋葬儀礼を把握する上で重要な資料を提供している。とくに銀製腰帯と装飾は珍しくも完全な形のセットで出土している。一方、墳墓の西側には朝鮮後期(18〜19C)に建てられた建物址が確認された。建物址の下からは瓦を床の全面(長さ4m、幅1.5m)に敷いた構造が発見されたが、西側には完全な形の牝瓦を方形に区画されるなど、特殊な用途の施設だったと推定される。


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昌寧・述亭里東西三重石塔

遺跡名 昌寧・述亭里東西三重石塔
時代 統一新羅時代
指定 東塔-国宝第34号、西塔-宝物第520号
調査年 2008年 ~ 2009年

昌寧・述亭里東西三重石塔は昌寧郡が周辺整備事業の一環として、石塔の基底部の構造・安全性を検討し、石塔関連遺構を確認するため、発掘調査を実施した。東三重石塔の調査では、塔の基底部を石と土を交互に敷いて版築した、石塔の基底部における統一新羅時代の典型的な様式が確認できた。塔の西側からは4基の建物址が見つかり、寺院の伽藍配置が推定できる資料となっており、「松林寺」という字が刻まれた瓦など、多くの遺物が出土した。西三重石塔の基底部調査では、床に粘質土を均し、周辺から採取した砂質土と粘質土を交互に敷いて基底部をつくったことが確認できた。塔の下層基壇からは金銅製風鈴1点が出土した。


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咸安・城山山城

遺跡名 咸安・城山山城
時代 三国時代
指定 史跡第67号
調査年 1991年 ~ 現在

咸安・城山山城は伽倻邑から南へ約2.5km離れた鳥南山(海抜139.4m)の頂上に築城された三国時代の鉢巻式山城であり、周りは約1.4kmである。咸安を中心とした古代阿羅伽倻の戦略的要衝であり、周辺には咸安・道項里古墳群や末山里古墳群など、当時の首長級の古塚古墳が隣接している点から考えて、阿羅伽倻の政治的・軍事的な拠点であったと推定される。山城の構造と性格を明らかにするため、1991年から現在まで計15回にわたる学術調査を毎年実施した結果、新羅の築城技法と関連のある三角形断面の外壁補強構造物を備えた夾築式石城であることが確認できた。調査の結果、南門址と東門址の位置や形が確認でき、排水溝、外壁補強構造物、内壁の築造分岐点など本丸の構造に関する多くの事実が明らかになった。とくに、2002年から本格的に始まった山城内の溜池を発掘することにより、護岸築石と木柱の施設などを備えた大規模な貯水池であり、城壁の崩壊を防ぐため溜池の下部と東城壁の周辺に植物の有機体を人為的に埋めた敷葉工法などが確認できたことは大きな成果といえる。また、敷葉工法が確認された東城壁周辺の有機物埋め立て層からは麺棒、櫛など多くの小型の木製品と墨書木簡が約280点出土した。これは国内で出土した木簡の最多記録である。これらの木簡には新羅の官等名(「一伐」「一尺」などの外位)をはじめとして多くの地名が記されているため、韓国古代史(新羅史)における地方行政組織を研究する上で貴重な資料だという評価を得ている。この他にも、巻物に挿す題籤軸、筆、削刀など重要遺物が多量の動植物遺体とともに収拾された。


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昌寧・松峴洞古墳群

遺跡名 昌寧・松峴洞古墳群
時代 三国時代
指定 史跡第81号
調査年 2004年 ~ 2008年

昌寧・松峴洞古墳群は校洞古墳群および桂城古墳群とともに昌寧地域を代表する古墳群であり、直径20m以上の大型古墳と中・小型古墳が牧馬山城の南の斜面に集中して分布している。2004年から2008年まで瓢形墳の6・7号墳と15〜17号墳に対する発掘調査および古墳群周辺の牧馬山、火旺山一帯に対する精密地表調査を実施し、さらに34基の古墳を確認した。松峴洞の6・7号墳はおおよそ5世紀末〜6世紀はじめに造られた橫口式石室墳であり、石室を中心に墳丘を放射状に区画して盛土した技法が確認された。石室の内部からは様々な土器類と金属・木製の遺物が計600点余り出土した。金耳飾、素環頭大刀、矢の山をはじめとして鞍橋、くつわ、鐙、鉸具、金具、杏葉、雲珠などの馬具類も多く出土した。とくに、7号墳からはクスノキの木棺がほぼ完全な状態で出土し、学界から注目を集めている。木棺の周辺からは漆器、金銅鉸具などの遺物が木の葉のような有機物に埋もれたまま出土し、石室の両短壁からは有蓋高杯などの土器が駕籠の中に入れられたまま出土するなど、当時の埋葬の風習の一端が窺える。一方、15号墳からは金銅冠、金の指輪、金玉、様々な馬具類とともに殉葬された人骨も出土した。2008年から2009年まで、考古学、法医学、解剖学、遺伝学、化学、物理学、造形学など人文学と自然科学の専門家が参加し、韓国ではじめて学際・融合研究を行った。この研究により、古代の人体を復元し、当時の埋蔵風習の一面を確認することができた。


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固城・内山里古墳群

遺跡名 固城・内山里古墳群
時代 三国時代
指定 史跡第120号
調査年 1997年 ~ 2006年

固城・内山里古墳群は赤浦湾の海岸一帯の低い丘陵(海抜10〜20m)に65基以上の中・大型の墳丘が密集して分布している。三国時代、小伽倻の支配階層の中心的な墓域の一つである。1997年から2005年まで、7次にわたる学術発掘調査の結果、古墳を築造した集団の実態や、当時の文化像、古墳群の構造的特徴などについてある程度明らかにすることができた。つまり、墳丘の中央にある竪穴式石槨または橫穴式石室を主槨とし、その周辺に多数の小型の石槨と甕棺を配置する多槨式構造は、内山里古墳群を代表する築造方法である。このような様式は固城・松鶴洞古墳群、栗垈里古墳群、蓮塘里古墳群からも見られており、固城を中心とした小伽倻地域の埋蔵風習であることが分かる。また、第8号墳をはじめとするほとんどの古墳で見られるものとして、黒褐色の粘質土を一定の厚さで敷いて均した円形の土台の上に、埋葬主体部を置く墳丘墓は、この地域の独特な築造方法と考えられる。出土遺物には三角形透窓高杯、水平口縁壷のような、慶尚南道西部の伽倻後期の土器様式の他に、瓔珞附台附長頚壷のような新羅系土器、有孔広口小壷のような百済系土器も多数出土した。これらの遺物から、6世紀前半頃、内山里古墳群を築造した政治体が海岸という地理的条件を背景に、多方面にわたる活発な対外交流を行っていたことが分かる。


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山清・智谷寺址

遺跡名 山清・智谷寺址
時代 統一新羅時代~朝鮮時代
指定 慶尚南道記念物第225号
調査年 2002年1月 ~ 2002年6月

智異山・熊石峰の北の麓に位置し、新羅・真興(チンフン)王の時に創建されたといわれる山清・智谷寺は、高麗前期には禅宗5大山門の一つであり、真観(チングァン、912〜964)と彗月(ヒェウォル、10〜11世紀)などによって数回建て直され、19世紀頃まで法灯を伝えた由緒正しい寺院である。試掘調査の結果、その実態が明らかにできる「智谷寺」銘の滴水瓦が出土し、正面と側面がすべて3間である金堂址からは仏像台座と塑造仏像が露出し、朝鮮時代の水槽と碑の亀趺が散在していた。また、石塔の部材は金堂址の中心軸線上の裏の丘陵に残っていたが、これは統一新羅時代の慶州南山などから確認される、望塔を持つ山地伽藍と類似しているので注目を集めている。しっかりした築台の上に設置された建物址からは、統一新羅時代の瓦をはじめとし、高麗・朝鮮時代の瓦甎類および磁器類が多数出土した。このような遺物の出土の様相と伽藍配置から見て、少なくとも統一新羅時代には創建され、朝鮮後期まで改築と補修が繰り返され、存続していたことが分かる。


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蔚山・雲興寺址

遺跡名 蔚山・雲興寺址
時代 統一新羅時代~朝鮮時代
指定 -
調査年 2001年7月 ~ 2001年12月

蔚山・雲興寺は新羅・真平(チンピョン)王の時、元暁(ウォンヒョ)大師が創建したといわれる由緒正しい寺院である。寺院跡は梁山市と彦陽邑の境界にある鼎足山の東の麓に位置する。朝鮮時代、木版の開刊でその名を馳せ、現在、梁山・通度寺に16種約670板が保存されており、その歴史的価値が非常に高いという評価を得ている。雲興寺址の発掘調査は寺域の中央に当たると推定される金堂址一帯に限って実施したが、その結果、朝鮮中期以降のものと推定される建物址7棟と築石遺構、排水路などが確認された。遺物は瓦甎類、磁器類、金属類、仏像片など約180点を収拾したが、そのうち、「雲興」銘の滴水瓦をはじめとし、年代が推定できる年号や干支が刻まれた瓦当や石造物は雲興寺の実態を知る上で貴重な資料となっている。金堂址と推定される東向の建物址は正面3間、側面2間だったが、その後3×3間の規模に改築されたことが確認された。その他、オンドルの構造と薄石の施設などが整然とした形で残されている大型の建物址なども発見された。雲興寺址から出土した遺物のほとんどは朝鮮時代のものであるが、一部は統一新羅時代末期と高麗時代の瓦や青磁も含まれているため、寺院の存続時期の推定に参考になっている。


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昌原・上南先史遺跡

遺跡名 昌原・上南先史遺跡
時代 青銅器時代
指定 -
調査年 1991年1月 ~ 2000年2月

昌原盆地の中心に当たる上南洞と吐月洞地域は、支石墓と貝塚をはじめとする先史時代の文化遺跡が集中して分布しており、ここでは上南商業地区再開発事業と関連し、計4回の試掘・発掘調査が行われた。上南先史遺跡は世界的に見ても珍しい青銅器時代の祭祀遺構と2重の堀遺構によって構成されており、北西に隣接した上南支石墓(1998年に調査)とともに、巨大な複合遺跡であることが分かる。川の周辺に造られた、自然堀を利用した一種の水辺祭祀遺構で発見された遺物は、土器の底の中央に意図的に円形の孔を開けて廃棄している点、破砕された多くの鉢形土器、漁網錘と切断された石器などから、青銅器時代に行われた儀礼行為に対する様々な検討の余地が新しく生まれている。堀は比較的規模が小さく、防御の機能よりは集落の特定の場所に対する境界の意味を持ち、出土した遺物の様相から見て祭祀の機能も果たしていたと考えられる。この遺跡からは主に深鉢形土器とつまみの形をした両取っ手の付いた鉢形土器、共伴出土した石鏃、磨製石斧、半月形石刀などから見て、おおよそ紀元前6世紀から紀元前4世紀に造られたものである。中心年代が重なる上南支石墓とともに、この地域の先史文化を研究する上で重要な学術資料を提供すると期待されている。


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山清・断俗寺址

遺跡名 山清・断俗寺址
時代 統一新羅時代
指定 -
調査年 1999年10月 ~ 1999年12月

山清・断俗寺址は智異山・熊石峰の南の麓に位置する統一新羅時代の寺院跡である。現在、寺域と推定される周辺は民家と田畑となっており、宝物第72号、第73号に指定された東西の三重石塔と幢竿支柱が残っている。新羅時代の景徳(キョンドク)王(742〜765)の時に李純(イ・スン)が創建し、信忠(シン・チュン)が建て直したと伝わっているが、現存する三重石塔は9世紀前期に建てられたものと推定されている。1999年、石塔の北側の整備区域に対する発掘調査の結果、民家の建物址2棟を確認し、磁器類、瓦類、小仏像片などの遺物を収拾した。


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蔚山・兵営城

遺跡名 蔚山・兵営城
時代 朝鮮時代
指定 史跡第320号
調査年 1999年8月 ~ 1999年10月

蔚山・兵営城は朝鮮時代に慶尚左道兵馬節度使営が設置された場所であり、朝鮮時代の太宗(テジョン)17年(1417)に築造され、19世紀中・後期まで使用されていた石城である。城郭は西北の鵄述嶺(海抜765m)と東の東大山(海抜444m)の間を流れる東川の西側、海抜45m以下の低い丘陵に位置する。ここは海岸から慶州へと続く道を眼下に見るという地形の利点を持っている。兵営城の北門址一帯に対する発掘調査の結果、本丸と門址を取り囲む甕城と堀に推定される施設の一部が確認され、土器・磁器・瓦甎類など24点の遺物が収拾された。北門址はすでに損傷を受けていて、その東には本丸の下段のみが残った状態で確認された。さらに、城門を防御する主要施設である甕城が本丸の外壁に半円型で付けられている。本丸と甕城は内外夾築式に築造され、内外の壁の間にある幅7〜8mの空間には雑石をびっしり敷いて均したことが分かった。本丸の外壁から約16m離れた場所には、堀の基底部施設に見える石列が2〜3段ほど残っている。蔚山・兵営城は素晴らしい立地により長期間存続した朝鮮時代の典型的な邑城であり、この時代の城郭を研究する上で重要な遺跡という評価を得ている。


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