研究現況
発掘調査
発掘成果
重要な先史·歴史時代の遺跡を発掘調査し、国が保護している史跡の整備·復元のための報告書、および研究成果を提示することによって歴史の復元を試みている。また、開発や盗掘により損傷、滅失される恐れのある遺跡と、地域住民からの苦情が生じる可能性のある緊急な事案の遺跡に対して調査を行っている。
1. 江華島墩台(史跡)
朝鮮時代の国防遺跡「江華島墩台」の国内初の発掘調査
国立文化遺産研究院は、仁川広域市江華郡両寺面北省里山47番地の 「チョル墩台(楼墩台)」の発掘調査を実施した。
チョル墩台は、金浦地域に対する軍事保護区域地表調査の一環として調査が行われた際、江華島一帯に残存する墩台高台の築造規模など、補修 ·復元に必要な基礎資料の不足が課題となり、 11月17日~12月24日の36日間、発掘調査を行われた。江華島にある墩台に対する最初の発掘調 査であり、これまで行われた墩台の調査 ·研究が、地表面上の現況調査のみであった点を補完 し、墩台の築造に関する重要資料を得ることができた。
チョル墩台は、海抜45メートルの低丘陵上に、花こう岩を加工しており、平面は鶏卵形であ る。規模は南北35メートル、東西27メートルで、小規模な石築山城を思わせる。墩台には、 壁に沿って北と北西、北東に砲座が備え付けられており、南には出入口が設けられている。 墩台の外壁は、一段の基壇石上に6~8段の花こう岩を15センチほど内側に下げて積み上げ、墩 台の上面には、割石を3段積み、土と生石灰を混ぜたもので仕上げている。壁石の築造は、下 段部の屈曲に合わせて石を加工し、精巧に積み上げている。
調査の結果、南壁と北壁は地下30~40センチにある風化岩盤層の上に基壇石を設けて壁石を 積み、風化岩盤層の傾斜が急な東壁と西壁は低い部分を石と土で補築し、石積みしている。 外側の壁面を支えるための内部施設は、下から人の頭ほどの割石を、徐々に内側寄りに積み 上げていき、5 ·6段目に割石を2段積みして仕上げている。壁面と補強石を裏込めする方法は、 東壁と西壁では異なっている。東壁は岩盤層の上に赤褐色の砂質土、炭を大量に含んだ黒褐色 砂質土、泥土層、粘土層などを交互に積みあげて込め、西壁は補強石の上に砂を一層敷き詰 め、その上に粘土と砂利を交互に固めている。
韓国の城郭や技術の伝統への理解を深める上で貴重な資料になるものと期待される。
また、外側の上面が、割石を積んで仕上げているのに対し、内側は塼を2~3段積みあげ、その 間に灰色の生石灰を塗っている。墩台外部の岩盤層は低く、土を補築して拳ほどの山石を敷き つめ、雨水などによる流失を防いでいる。
壁石に比べ基壇石を内側寄りに積み上げる点や、内部の裏込め方法などは、朝鮮時代の石城の 築造法を思わせるもので、墩台の築造が、伝統的な石築城郭築造技術の伝統にもとづいている 証拠といえよう。また門西側の壁から築造時期(康煕五十九年四月日、1720年)と官職名などが 施された銘文が見つかった。
チョル墩台の発掘調査の結果は、江華島の墩台研究の基礎資料としてだけでなく、現在江華郡 が推進中の墩台の補修 ·復元資料としても重要であり、韓国城郭の展開過程と技術伝統を理解 する上で好資料として期待される。
2. 江華島高麗王陵(史跡)
江華島には、王陵2基、王妃陵2基、陵内里石室墳、許有全墓など、高麗時代の古墳が多数分布している。国立文化遺産研究院は、特に重要な古墳を中心に、2001年(碩陵)、2004年(嘉陵・坤陵)、2006年(陵内里石室墳)にかけて、4基の発掘調査を行った。
これらの古墳は多くの共通点を有し、江都(江華島への一時遷都)時代における王陵級古墳の典型を一部確認する好機となった。共通点としては、いずれも横口式石室墳であること、、横口部にとりつく東壁・西壁の先にある門柱石、その間の床面に設けられた門地枋石、天井石をなす3枚の板石、石室両壁の最上段と最下段で見つかった木製門の固定用と思われる方形孔、などがある。また石室内部の床面中央には、長方形の棺台を設け、天井(蓋石)上部には8角もしくは12角の護石をめぐらせており、石室入口は1枚の板石で閉塞しているのも共通点である。
このうち、陵内里石室墳は、護石をめぐらせた封土と外側にめぐる欄干石、欄干地台石、石獣2基、そしてこれらを保護する構造物である曲墻が確認された。これらの配置は造成当時のまま残されており、欄干石をはじめ構造物の築造法・封墳の形態の復元が可能である。
坤陵と陵内里石室墳からは、石室の前面から建物址が確認された。坤陵の建物後は正面が3間構造をなし、中央の間が突出し、つながっていることから「丁字閣」と推定される。
陵内里石室墳は、根石が正面と側面に1間ずつ残存し、建物址の南には築台が露出しており、築台の中央には踏道が設けられている。碩陵、嘉陵、坤陵、陵内里石室墳は、いずれも数度の盗掘にあっており、金属・玉製装飾品、青磁、瓦など、様々な遺物がかなり残されていた。重要遺物としては、陵内里石室墳の東西南北の四隅から見つかった鎮壇具(陶器壷)、嘉陵の石室内部から見つかった100点余りの唐宋代銅銭、玉製装飾品などがあり、坤陵と碩陵からは、三足香炉と簡潔な唐草文を逆象嵌した瓶の蓋など、青磁の最上品が多量出土した。また坤陵・陵内里石室墳の建物址からは、鬼目文軒丸瓦・鷲頭をはじめ、多数の瓦類が収拾された。
遺跡の全景(碩陵・嘉陵・坤陵・陵内里石室墳)
石室の内部(碩陵・嘉陵・坤陵・陵内里石室墳)
方形周溝(碩陵・嘉陵・坤陵)
石室の上部構造物(碩陵・嘉陵・坤陵・陵内里石室墳)
石室入口を防ぐ方法(碩陵・嘉陵・陵内里石室墳)
石室前面の建物址
3. 開城高麗宮城遺跡南北共同発掘調査
国立文化遺産研究院では2007年以降、朝鮮民主主義人民共和国の文化保存管理局・朝鮮中央歴史博物館と共同で、開城の高麗宮城遺跡に関する南北共同発掘調査を行っている。南北は、2007年の5月~11月の120日間、宮城遺跡の中心である会慶殿領域の西辺区域30,000㎡の試掘調査と、一部区間の発掘調査を行った。また2008年には10月~12月の50日間、発掘調査を実施した。
調査の結果、立地や性格によって中心軸が異なる多数の建物址が検出され、会慶殿西辺の建物配置が確認できた。またこれまで確認されなかった「亜」字形建物の構造的特徴が確認された。調査区域の西北辺にある正面5間・側面3間の17号建物址は、『高麗史』に記された太祖、歴代王の真影が安置された景霊殿と推定される。
出土遺物のうち用途不明の円筒形青磁(長さ65センチ)は、前例のない非常に特徴的な遺物で、今後の研究が期待される。また表面に印章が押された100点余りの軒瓦は、高麗時代の瓦研究の新資料として注目される。
今後の年次発掘調査により、高麗宮城・高麗時代の都城史研究に新たな方向を示す、豊富な資料が確保できるものと期待される。
4. 景福宮発掘調査
太祖4年(1395年)に創建された景福宮は、日帝強占期に意図的な変形・損傷を受けた。したがって、朝鮮最高位の宮殿である景福宮の本来を姿を取り戻すため、国家遺産庁は「景福宮復元整備事業」を進めている。2004~2005年には、景福宮焼廚房址と興福殿址、咸和堂・緝敬堂行閣址が発掘され、2006~2010年には光化門址、月台、宮牆址、用成門址、協生門址など光化門圏域を発掘した。2011年以降は興福殿址に対する追加発掘を行う予定である。
2004年には、焼廚房址・福会堂址の調査が行われた。焼廚房はスラカンとも呼ばれ、宮殿内の飲食を準備する場所である。発掘調査の結果、内焼廚房・外焼廚房・福会堂の址が確認された。内焼廚房は、王の膳を準備する場所であり、外焼廚房は茶礼や宴の飲食を、福会堂は宮廷内で使用する飲料・茶菓といった間食を作る場所である。そのほか、建物を建てる前に緻密に計画された排水施設や、当時使用された井戸などが確認された。
2005年には、興福殿址、咸和堂・緝敬堂の行閣址の調査が行われた。興福殿址、咸和堂、緝敬堂は、主に外国の使者との会見や、内閣会議に使われた。発掘調査の結果、興福殿と付属の行閣9棟、咸和堂、緝敬堂の行閣址7棟が確認された。また高宗年間以前の建物址も5棟が追加で確認された。そのほか、オンドル施設13基、門址5基、排水施設12基、排煙施設3基・塀址2基が確認された。
2006年には、興福殿址・咸和堂・緝敬堂址の追加調査と光化門圏域一部地域に対する調査が行われた。興福殿址からは、高麗時代の推定溝遺構が追加で確認され、咸和堂・緝敬堂址からは塀2基、緝敬堂南行閣址、先代建物址などが追加確認された。光化門圏域は、現在の光化門の東辺宮牆北側の一部区域が調査され、建物址1基と根石群、オンドル施設1基が確認された。
2007年には、光化門圏域の調査が行われた。まず宮牆址・御溝(虹霓)地域は、現在の東十字閣の周辺地域であり、景福宮南辺の東西宮牆址と宮殿内の水を流れ出る御溝が出会う場所である。この場所では東西宮牆址と、水門である虹霓門1基、脚1基が確認された。次に、光化門址、月台地域の発掘調査においては、朝鮮時代後期(高宗年間)の光化門址と、月台・宮牆址をはじめ、その下層から朝鮮時代前期(太祖年間)の光化門址・月台・宮牆址が確認された。そのほか、朝鮮時代の建物址2棟をはじめ、植民地時代の電車線路・電信柱・建物址などが確認された。
2008年度には、光化門圏域内に含まれる興礼門の東西回廊から宮牆址までを南北に結ぶ塀址とその間にある門址、光化門陸築の東方から東十字閣に至る東辺宮牆址地域の発掘調査が行われた。発掘調査の結果、地下40センチから高宗代の塀と用城門址、そして協生門址、さらにその下部から、先代建物址各1棟、宮庄牆址が良好な状態で確認された。
この地域に対する発掘調査により、光化門一帯の用城門、協生門、光化門東辺の宮牆の正確な位置と規模が確認できた。特に宮牆は基礎部が完全に残されており、朝鮮時代宮牆の雄壮さをうかがうことができる。また壬辰倭乱(文禄の役)以前の建物址としては、朝鮮時代前期・後期の宮殿建物空間の変化(「廊→塀」)の確認により、これまで知られていなかった前期景福宮の姿を知る上で貴重な資料になるものと期待される。
2009年度には光化門圏域内、西側宮牆址、営軍直所・哨官処所址を発掘した。「光化門西側宮牆址発掘調査」では、この区間で発見された御溝の位置により、「北闕図形」の記録が、「方案図面」より正確であることが再び確認できた。この事実を受け、今まで「朝鮮古跡図譜」によってのみ推定してきた西十字閣の位置が、「西十字閣表示石」より少し北側に位置するという事実が明らかになった。また、図の資料において様々に描写されていた御溝の形、規模が明らかになり、宮牆内部から外部へと流れる御溝の全体図が推定できる。また、「営軍直所・哨官処所址発掘調査」では、撹乱のため景福宮復元に役立つ考証資料は見つかっていない。しかし、文献には記されていない遺構が持続的に確認されている点、先代の遺構が景福宮全域にわたって残っている点が再び確認できたことは重要な成果と言える。今後の景福宮発掘調査の必要性を再確認した重要なきっかけとなった。
2010年度には西守門将庁地域、御道、光化門、東・西の宮牆の南側をはじめとし、東守門将庁、軍士房、用成門・協生門北側宮牆址、御道北側に対する発掘調査が行われた。西守門将庁地域では、朝鮮後期の建物址3基、光化門東西宮牆の南側地域では日帝強占期の電車線路が確認できた。
また、東守門将庁、軍士房、用成門・協生門北側宮牆址、北側御道などは撹乱により遺構は確認できなかった。発掘地域は撹乱が激しく、建物址がほとんど見つかっていないが、日本の植民地時代から近現代に至るまで、電車線路の歴史と築造方法が推定できる電車の線路および枕木に関する資料が確認できた。とくに、光化門西側の宮牆南側区域では、枕木上面の線路まで確認されるなど、ほぼ完全な状態で線路が確認され、近現代遺物として活用価値が高いと判断される。
5. 高城文岩里(史跡)
韓国最北において韓半島最古の新石器人の痕跡を発見
江原道にある高城文岩里先史遺跡は、東海岸から内陸へ約400m離れた丘陵の南の砂丘にある。発掘調査は1998年から現在まで4回にわたって行われている。第1次と第2次(1998年と2002年)発掘調査では、新石器時代の住居址と埋蔵遺構、屋外炉跡など15基の遺構から様々な新石器時代の土器および石製品など約1,000点の遺物が収拾され、その研究成果と重要性が認められたので史跡に指定された。現在、文岩里先史遺跡一帯に対する歴史教育の場として活用するため、発掘調査が行われている。2010年の発掘からは住居址1基、屋外炉跡2基の遺構からは西海岸式沈文系土器が収拾された。
今までの発掘遺構や出土遺物から、年代的には国内最古の新石器遺跡とされている襄陽鰲山里遺跡(B.C.6000~3000)に近く、最下層の遺構はさらに古いと推定されてる。韓半島東北地域と中国東北3省地域、ロシアのアムール川を含む東北アジアの新石器文化と韓半島先史人の源流・移動ルート、当時の文化系統や伝播様相などを明らかにする上で大変重要である。
6. 羅州伏岩里3号墳(史跡)
栄山江流域「アパート型複合古墳」の実態
羅州伏岩里第3号墳は、栄山江中流の多侍面・伏岩里の野原に位置する平地型古墳である。本来7基が分布していたので、昔からこの一帯は「七造山」と呼ばれていたが、現在は4基だけが残っている。4基の古墳における墳丘の形は、円形、梯形、方形と様々であるが、方形の古墳は第3号墳である。1996から1998年まで3段階にわたって発掘調査を行った結果、栄山江流域における初期横穴式石室墓に、同地域における土着の墓制の甕棺が埋納されており、栄山江流域の土着集団が百済に取り込まれていく過程を象徴的に示す非常に重要な遺跡であることが分かった。また、一つの巨大な墳丘に、甕棺墓、木棺墓、竪穴式石槨墓、横穴式石室墓、横口式石槨墓、石槨甕棺墓など、栄山江流域で見られるほぼすべての墓制が41基確認され、3世紀~7世紀にかけての墓制の変遷をうかがうことができる。さらに、現在の方台形墳丘を造営する前に築かれた台形の先行墳丘2~3基を拡大造成したことが明らかになり、同地域の古墳築造の特徴や、5世紀後葉における地域集団が、百済などとの関係に、いかに適応していったのかを考える上でも貴重である。こうした墓制以外にも、金銅履、銀製冠飾、装飾大刀など華やかな遺物が出土し、百済-栄山江流域-倭へとつづく当時の交流関係・力学関係を考える上で重要な資料を提供しており、栄山江流域の考古学、歴史学的研究に活気を与えている。
7. 羅州新村里9号墳(史跡)
栄山江流域の中心勢力の巨大古墳
全羅南道・羅州市・潘南面一帯に位置する羅州新村里9号墳は栄山江流域を代表する甕棺古墳である。潘南面には新村里、徳山里、大安里一帯に古塚古墳群約30基が残されている。中でも中心となる新村里9号墳だけが方形であり、それ以外は円形と梯形である。新村里9号墳は80年前(1917・1918)、日本人により調査された。当時の調査では、甕棺11基、金銅冠(国宝)、金銅履、環頭大刀などが見つかっており、注目を集めた。しかし、当時の政治的状況などを受け、歴史的解釈や調査結果報告などに多くの問題点を残しており、研究の障害となってきた。1999年に実施された再発掘は、栄山江流域における古代社会を明らかにする上で非常に重要な考古学的発掘といえる。墳丘の頂上と中間部分から高さの異なる円筒形土器が列をなして立てられているのが新たに確認された。円筒形土器は光州明花洞・月桂洞の長鼓墳など、栄山江流域の各地で出土しているが、墳丘に列をなす状態が確認されたのは初めてであり、この土器の副葬位置・機能の解釈に関する手がかりを提供してくれる。円筒形土器は、日本の古墳時代における円筒埴輪に類似し、葬制とのかかわりとあわせて韓日の古代史研究に重要な手がかりを与えてくれるが、日本列島における埴輪とは器形や製作技法、整面手法などが異なり、埴輪のアイデアを借用し、現地で製作されたことが分かっている。また、周溝は墳丘の四方に巡らされているが、水溜りのような窪みの形態をなし、各辺に2~4か所に存在する。周溝は墳丘を高く大きくし、周辺から土を得るという機能を主に担っていたと推定される。甕棺の上下の中層の埋納とともに、墳丘の土層、円形土器の配置状態から確認した結果、墳丘は一度以上垂直に拡張されたことが分かった。同地域における甕棺古墳の築造上の特性を考える上で貴重な資料と評価される。
このように再発掘は、80余年前という時代の限界を持つ「羅州新村里9号墳発掘調査」を克服し、墳丘の築造方法、埋葬施設の構造、円筒形土器の樹立など、新たな事実を解明した。また、栄山江流域式の円筒形土器の本格的な導入と百済の文物など、潘南古墳群段階の栄山江流域の政治集団が、躍動的な時代の中で、積極的に対処していった痕跡が見出せることも、大きな進展である。
8. ソウルオリンピック美術館 ·彫刻公園敷地発掘調査
調査地域のソウル市松坡区芳荑洞88-2・3番地一帯の110,200㎡(約33,400坪)は、オリンピック公園内に美術館・野外彫刻公園のあった場所であり、国民体育振興公団が新築の美術館・地下駐車場を建設するなど、彫刻公園の再整備事業が進められた場所である。
同地域は、国が指定(史蹟)・保護する百済時代の夢村土城の南端に隣接している。地表調査の結果、本格的な試掘調査の必要性が持ち上がり、文化遺産委員会の第3・6分科の合同会議では、夢村土城の外郭に存在した可能性が高い城壁関連遺構(垓字など)をはじめ、当時の住居や墳墓遺跡などの存在を確認するため、国国立文化遺産研究院が事前発掘調査を行った。
調査の結果、美術館・地下駐車場の建設敷地において、東辺丘陵地帯との隣接地域から百済時代の遺物包含層・溝などが一部検出されたが、遺物包含層は厚みがなく出土遺物の量も少なめで、百済時代の集団住居施設は造成されなかったと推定された。西側の低地に進むにつれ、遺物が全く混入していない厚さ3メートル以上の泥土層が確認され、この辺りが夢村土城の築造以前から長期にわたって自然形成された湿地であった可能性が大きいと判断された。
一方、整備予定地にあたる野外彫刻公園敷地は、その地形から西(大草原敷地)と東(丘陵地帯)に大別されるが、試掘トレンチの結果、オリンピック公園造成当時の地形を知り得る層が確認され、さらに一部区間からは、百済時代の遺物包含層と住居址などが検出された。
大草原敷地は、夢村土城方面(北側)を除く低い丘陵によって三面を囲まれており、東西方向に傾斜をなしている。これは、オリンピック公園の造成時、約2~3メートルを埋めたてて形成されたものであることが分かった。特に東の丘陵地に隣接する斜面では、百済時代の方形住居址1基、竪穴遺構などが確認され、丘陵地内部の低地帯からは、西へと徐々に傾斜、狭まっていく泥土層が見つかった。規模や形から、夢村土城の南をめぐる垓字というよりは、百済時代における、耕作にかかわる貯水池跡と推定される。これは、夢村土城城壁の隣接地点に対するトレンチ調査によって垓字の手がかりが得られなかった点からも裏づけられる。
一方、東の丘陵地帯は、南北および東西の方向にやや長めに分布しており、百済時代当時にも、これに似た地形をなしていたものと推定される。試掘調査の結果、南北丘陵はおおよそ本来の地形を削平して現在の姿に造成したもので、東西丘陵の東端部は、一部を盛土し、公園を整備したものと推定される。つまり同地域は、公園造成の際に相当部分が毀損され、百済時代の多くの文化層がなくなってしまったものと把握される。ただ南北丘陵の南端にあたる渓谷部では、百済時代の遺物包含層が一部確認され、小形の短頸壷などの遺物が多く出土している。以上をまとめると、同地域は、百済時代の住居施設などが存在した可能性が高いが、現在ではそのほとんどが原形をとどめていないと判断される。
以上の調査成果を総合すると、オリンピック美術館・彫刻公園の建設敷地においては、特に夢村土城にかかわる垓字、土城外郭の集団住居施設、墳墓遺跡などは検出されず、丘陵地に囲まれた低地帯は、長期にわたって背後の湿地もしくは耕作にかかわる貯水池として機能していたものと推定される。
9. 崇礼門の発掘調査
崇礼門の発掘調査は、2008年2月の火災で焼け落ちた崇礼門を復元するため、2008年~2010年の3ヶ年計画で進められている。その目的は、崇礼門をはじめ、門の左右にとりつく城郭や周辺部を朝鮮時代当時のままに復元する計画の基礎考証資料を確保することにある。年度別の調査対象は次の通りである。2008年は崇礼門の内・外部の10余メートル区間、2009年は崇礼門左の城郭と周辺地形・崇礼門陸築の隣接地域、2010年はそれ以外の地域の調査である。
調査の結果、崇礼門を通過していた朝鮮時代後期の道路と建物址、崇礼門の左右城壁の基礎などが確認された。
道路は、褐色の砂質土を6~8層突き固め、その上に大きめで不定形の薄石(平均110×100×10センチ)をのせ、路面を舗装するという、精巧なつくりである。
建物跡は、朝鮮時代前期(16世紀前後)と推定される遺構から朝鮮時代後期~大韓帝国(19世紀~20世紀初)時期にかけての全時代の遺構が層をなして確認された。そのほか、排水・オンドル施設も検出された。崇礼門の左右の城壁は、日帝強占期に形を変えられ、現在のような上段がななめに切断された形で残されているが、今回の調査により、その基底部(基礎)が残存していることが分かった。城壁は、地表面に露出していた小さな方形石材(30~40×20センチ)の下に、3~4段の石材(長台石)と、さらにその下に割石と黄色の砂質土を交互に敷きつめており、高さは210~240センチである。
出土遺物は、朝鮮時代の瓦・塼類、白磁香炉・水滴・唾具などの陶磁器類、常平通宝・さじなどの金属類、すずりなど様々である。
10. 峨嵯山4堡塁発掘調査
京畿道九里市峨川洞と、ソウル市広津区中谷洞山1番地にかけて存在する峨嵯山4堡塁は、南北に伸びた峨嵯山稜線の最北峰(海抜284メートル)に立地している。
峨嵯山4堡塁は1997~1998年、ソウル大学校博物館によって内部調査が行われ、建物址7基、貯水施設2基、オンドル施設13基、簡易鍛冶施設などが確認され、多くの高句麗土器・鉄器が出土した。
その後、九里市では、史跡整備の一環として、不十分な調査地域と城壁を確認するため、追加発掘を同研究院に依頼、2006年5月~10月にかけて調査が行われた。その結果、雉が4か所、二重構造の雉1か所、排水路1基、オンドル施設5基が確認された。特に二重構造の雉は、遺跡の南において確認された。この遺構は、出入口・望楼などの役割を果たしたものと考えられ、今後の高句麗城郭の新たな研究が期待される重要資料と評価される。
11. 襄陽洛山寺発掘調査
2005~2006年における洛山寺円通宝殿第1次発掘調査に引き続き、2006年、第2次発掘調査では、円通宝殿の周辺地域が調査され、建物の伽藍配置と規模などが明らかになった。
調査の結果、洛山寺の伽藍配置は、3段構成の階段式である。最上部にあたる第1段には円通宝殿(法堂)、第2段には中央の中庭と左右の建物2棟、その南に東西方向の建物址1棟があり、第3段には寺の出入口にかかわる建物址1棟が確認された。
遺物は、統一新羅時代から高麗時代、朝鮮時代までの軒瓦、瓦、土器片などが出土した。だが、調査区域内において、各時期の遺物にかかわる遺構は全く見つからず、創建期から高麗・朝鮮時代後期以前の伽藍配置は把握できなかった。
これらから、円通宝殿周辺の建物は、朝鮮時代後期以降、火災と重唱を繰り返し、基壇部などを再利用してきたが、1950年の朝鮮戦争によって完全に焼失したものと考えられる。
今回確認された伽藍配置の構造は、金弘道が1778年、正祖の命によって金剛山・関東八景地域を写生旅行した際に描いた作品のひとつ「洛山寺図」に類似する。こうした洛山寺伽藍の配置は、18世紀の鄭歚や金有声による絵画作品によっても一部確認される。
同寺の伽藍配置が、発掘の結果と18世紀の絵画資料とでほぼ一致している点には、大きな意義があり、洛山寺復元のための重要資料として評価されている。
12. 将島清海鎮遺跡(史蹟)
海上王張保皐の海上活動にかかわる将島清海鎮遺跡の発掘調査
国立文化遺産研究院は、「海上王張保皐」の海上活動と関連し、史蹟に指定された全羅南道莞島郡莞島邑将座里にある「将島清海鎮遺跡」の発掘を行い、これまでに得た成果を公開した。
国立文化遺産研究院ではこれまで、将島清海鎮遺跡の実体究明のため、1991年から8回にわたって発掘調査を実施し、第6次までの発掘調査では、全長890メートルの版築土城(土を突き固め、層を重ねて造る城郭)と内部建物址、掘立柱建物址(地面に穴を掘りくぼめて木の柱を立てた建物の跡)、埋納遺構(地中に土器などを埋めた遺構)などを確認した。また331メートルに達する海岸の原木列の分布範囲を確認し、総3万余点を超える大量の遺物を発掘し、将島が清海鎮の主な根拠地だったことを明らかにした。
特に昨年の調査(第7次)では、張保皐の海上活動に関する海岸の出入・接岸施設である「コ」の字形の築石石列遺構、井戸といった重要遺構が検出されるなど、清海鎮の本営がこの将島にあったことを示す決定的な資料を確保した。
今年度(第8次)は、「コ」字形の石築石列遺構・井戸の構造調査を終了し、海底面からは、すでに確認済みの原木列と、これに並行して設置された木柵が新たに確認された。そのほか、城壁に設けられた排水口が初めて調査され、清海鎮時期の版築土城の城壁の内外に2重の基壇石列を敷かれていたことも確認された。
「コ」字形の石築石列遺構は、規模およそ21×22メートルで、内外に基壇石列もしくはを根石を設け、その間を版築で築いた海岸構造物であり、国内をはじめ、中国や日本においても、いまだ類例が報告されていない。
井戸は深さ6メートル、床面には「井」字形を丸太で作って基礎とし、その上に石垣を積みあげている。上部が狭く(直径150センチ前後)、中間部がやや広がり(直径180センチ前後)、基底部に至って再び狭まっている。
また井戸の底には、水の浄化用に、砂利を約50センチ敷いていることが確認された。この井戸底から、四面偏瓶、ひだ文瓶など土器類、轡片、鉄製手斧、金製輪など金属製遺物、さらに漁網錘、紡錘車、砥石など、多数の遺物が出土した。特に偏瓶類は、4点が並べられ、いずれも口縁部のみが壊されている点から、井戸の築造時に意図的に埋納したものと思われる。これは井戸と清海鎮築城・運用の時期が、同一であることを立証している。また深さ6メートルこの井戸は、清海鎮だけでなく、航海する張保皐船団の飲料水源としての役割を果たしたものと推定される。
将島の西にある低地帯からは、城壁の左右両側から石の補築を行い、床面は板石を敷き、その間に割石を込めて水が流れるようにした暗渠式排水口が調査された。集水のため、入口はじょうご形に作ってある。このような構造は、版築土城の排水方法にかかわる貴重な資料として評価される。
以上、将島清海鎮遺跡において発掘調査された数多くの遺構・遺物は、張保皐の海上活動の根拠地としての清海鎮の実体を究明する基礎資料となる。特に絶対年代が9世紀前半である多くの遺物は、今後統一新羅時代の「指標」としての価値が期待される。
13. 中部西海島嶼地域学術発掘調査
白翎島・延坪島を含む中部西海島嶼地域は、新石器時代における西海岸一帯の漁ろう・海上活動を把握する上で貴重な地域であるため、発掘の必要性がかねてより提起されてきた。
一方、国立文化遺産研究院は1982年、ソウル大学校が発刊した「白翎・延坪島櫛目文土器遺跡」と2001年「軍事保護区域内文化遺跡地表調査」の内容を、比較・調査した。調査結果、人為的・自然的要因により、貝塚の数が16か所から9か所に激減し、残された貝塚も破壊が進んでいることが分かった。
この事実を受けて遺跡保存対策を樹立し、遺跡の正確な性格を把握するため、延坪島に残された貝塚の中から損壊・滅失する可能性の高い遺跡を選び、発掘調査を行った。2000~2001年には「小延坪島貝塚」、2002年には「大延坪島毛伊島貝塚」、そして2003年には「大延坪島カッチ山貝塚Ⅰ」が発掘された。
小延坪島貝塚からは、2つに分けられた貝殻層が確認された。層は大きく7つに分かれており、そのうち2層が新石器時代の貝殻層である。貝殻層は腐植土の真下に形成されており、貝殻層形成以前の丘陵には、新石器人の生活面と推定される暗褐色粘質土層と暗黄色砂質土層が堆積している。これら2層は、貝塚の形成とほとんど時間差なく堆積したものと思われる。
出土遺物は、鉢形土器、壷形土器、碗で、大部分が鉢形土器であり、上層へ行くにつれ壷形土器が増加する。文様は、横走魚骨文、短斜線文、斜線帯文、縦走魚骨文、格子文、菱文、傍点文などで、上層へ行くにつれ多様化し、無文化する傾向にある。特に第2貝塚からは、第1貝塚とは異なり、新たな器種・文様が出現しており、第1貝塚より長期間使用された可能性がある。また第1貝塚は、出土土器の量に比べて貝殻層が第2貝塚より厚く、2つの貝塚の用途が異なっていた可能性も排除できない。
遺跡の中には、中西部内陸地域と南海岸地域につながる土器が出土し、両地域間の文化的相関関係を明らかにする貴重な資料という評価を得ている。さらに、300余点に達する多くの漁網錘・魚骨、貯蔵用の大型土器が見つかった。
一方、貝殻を用いて放射性炭素年代測定を行った結果、第1貝塚はB.C.2860~B.C.2280、第2貝塚はB.C.2860~B.C.2400(信頼度95%)の絶対年代が算出され、新石器時代中期末~後期初に該当すると推定される。
大延坪島毛伊島貝塚からは、直径15メートル前後、最大厚さ6メートルに達する貝殻層が見つかっている。貝殻層の断面層は、順次堆積された状態を示している。
遺構としては新石器時代の住居址2基と屋外炉跡8基が確認された。住居址は堆積された貝殻を堀り、縁に壁石を巡らせ、内部に炉址を造るという、整然とした構造を持っている。 遺物は中部西海岸地域において確認される針線文系櫛目文土器が多数を占め、黄海道地域と関係がある押捺系菱文、波文土器が3点出土した。石器の出土量が多い点は、従来調査された同地域の貝塚遺跡とは性格を異にするもので注目される。また貝塚内からは、出土例の少ない石鏃や一個体分の鹿角が見つかっており、新石器時代の人間が漁ろうと狩猟を併行していたことが分かる。
大延坪島カッチ山貝塚Ⅰは、約50坪余りの発掘調査が行われ、4つに大別される遺物包含層の堆積が確認され、住居址1基、野外炉跡5基が見つかった。土層は、丘陵上部を下りながら形成された褐色磨砂粘土層が、調査地域の全面において確認されており、この層を境に各層の堆積順が区分できた。これは櫛目文土器の編年を細分化する重要な資料となる。
出土遺物は、中部西海地域の新石器遺跡とは多くの差が見られる。主に中部西海地域は針線系横走魚骨文が大多数を占めるが、同遺跡は押捺系短斜線文と菱文、波文が主をなしている。この点は、隣接する黄海道地域との密接な関係があったことを示しており、北朝鮮出土の櫛目文土器と比較する好資料として評価される。区分系土器・縦走魚骨文、胎土に滑石と石綿が混入した土器などの存在を考慮すると、同遺跡が中部西海地域で確認された新石器時代遺跡に比べ、相対的に早いものと判断される。
貝殻内部からは、炉跡とともに多量の動物・鳥類の骨が一括して見つかり、当時、漁ろうだけでなく狩猟が盛んに行われたことが確認され、新石器時代文化の研究における重要資料と考えられる。
発掘調査において明らかになった多量の遺物は、これまで発掘調査資料の少なさから困難であった中部西海地域における新石器時代の考古学的研究における土器文化の変遷、新石器人の生計復元のための重要資料を提供するものと思われる。今後、保存の手が及ばず自然的・人為的に損壊・滅失する恐れのある西海島嶼地域の貝塚に対し、明確な保存対策の樹立が望まれる。
14. 昌徳宮錦川橋周辺の発掘調査
錦川橋は、太宗代の1411年に建設され、宮殿内における最古の石橋とされている。現存する錦川橋は、進善門からやや北の斜めに位置している。しかし、朝鮮古蹟図譜などの掲載写真や、東闕図をはじめとする多くの文献資料によると、進善門と直交するものと、現在のように斜めに設けられた二種類が確認され、かねてより日帝強占期の移設説が持ち上がっていた。
2001年と2002年の2回にわたる発掘調査が行われた。調査結果、錦川橋の下にある二つのアーチ型の中に確認された排水施設は、全長10m、幅2.4mのものである。錦川橋の南の付近は、灰色の干潟層に細砂の粘土を30~40cmほど敷いた後、杭を打ち、その上に雑石を2~3層載せる方法により基礎が固められた。出土遺物としては15~16世紀の青磁と白磁片が多数出土したが、19世紀の白磁片と日本の磁器も一部見つかっている。
15. 坡州金坡里旧石器遺跡(史蹟)
全谷里とともに韓半島旧石器人の最大拠点を確認
金坡里遺跡は、臨津江の東にあり、川の方向と並んで形成された丘陵部上に位置している。同遺跡は1989年から1992年にかけ、4次にかけて調査が行われた。ハンドアックス、円形クリーバー、多角面円球、チョッパー、石核、剥片など全部で2,400片の遺物が出土した。
同遺跡の発見により、臨津江下流域にも第4期地質時代に人類が住んでいたことが明らかになった。古人類の環境適応体系・生活方式を総合的に究明できる貴重な資料されている。
16. 風納土城(史蹟)
巨大な帝国、百済の実体を解明する土城の全貌現れる
風納土城(史跡)は1997~2000年に行われた発掘の結果、巨大な平城であることが明らかになり、2003年から第1次10か年中長期計画を樹立し、史蹟公園化事業の一環として発掘が行われている。また青少年文化体験村の内部に展示室を設け、発掘資料を公開する予定である。
同研究院が1999年に行った城壁発掘調査は、風納土城に対する復元・整備の基礎資料を獲得するためのもので、この城に対する最初の城壁調査となった。城壁調査はA、Bの2地点を選定してそれぞれ城の内側から外側の側まで長さ50メートル、幅10メートルに区画しており、東西を完全に貫通させて城壁を断ち割る方法で行われた。
調査の結果、風納土城は、中心となる土塁の内側と外側を、傾斜をつけた版築土塁によって輔築し、城の内壁と外壁の上部には石列を積んで土塁を補強している。城壁の内部では、植物を混ぜた築造方法が確認された。今回の発見は、従来確認された築造法の中でも最も早い時期に属するもので、古代土城の築造法・伝播の過程と合わせ、漢城百済初期の王城・都城研究において画期的な資料となるだろう。
17. 風納洞197番地発掘調査
百済王都の構造が次第に明らかになる
百済初期都城の風納土城(史蹟)に対する第1次10ヶ年学術調査推進計画が樹立され、風納洞197番地一帯(旧未来村敷地)の発掘調査が、2004年から2011年まで行われた。調査の結果、漢城百済時代(B.C.18~A.D.475)に築造された道路、大型廃棄場、建物址、住居址、竪穴遺構など543余りの遺構が確認された。とくに砂土と川石で均された道路(全長123m)と、道路に沿って道路脇に設けられた排水施設が見つかった。
この地域で確認された住居址は、三つのタイプに分けられる。時期別に平面凸(呂)の字型の住居址、出入口施設の付いた平面六角形の中・大型の住居址、平面方形の小型住居址の順に現れる傾向がある。 凸(呂)の字型の住居址からは主に硬質無文土器と楽浪系土器などが出土し、六角形住居址からは三足器、高坏、器台など漢城百済時代後期の器種は見つかっていない。また、竃の場合、凸(呂)の字型の住居址はおおむね鉤型オンドルと炉址が造られており、六角形住居址は煙道部の長い「一」の字型の竃が見つかっている。一方、方形住居址の場合、短い煙道部を持つ「八」の字型のものなどが見つかっており、時期別、位階別に住居址のタイプが異なると推定される。
また、調査地域の北側一帯では住居址より長方形竪穴が多数確認された。長方形竪穴は木槨に推定される土層の状態や大甕が出土した点から考えると、倉庫の機能を果たしていたと推定される。これは扶余の官北里の木槨倉庫に似ている。官北里木槨倉庫は、食料を宮殿に供給する保存施設で、泗沘期の木槨倉庫の源流と思われる。
出土遺物は、これまで確認された硬質無文土器、長卵形土器、器台、高坏など様々な百済土器が見つかった。また扶余の老河深遺跡出土の金製耳飾と類似した銀製耳飾装飾品、中国製鋪首、青磁陰陽刻蓮弁文碗、中国西晋代の施釉陶器、中国北魏の影響を受けた蓮華文軒丸瓦が見つかった。当時の百済の周辺国との交流を考える上で重要な資料である。とくに、2005~2006年には大型瓦廃棄竪穴から多数の百済漢城期の瓦が出土して以来、2010~2011年に建物址とともに数千点に上る百済漢城期の瓦が出土した。これは、韓半島における初期の瓦を研究する上で最高の資料を提供している。
調査地域の東南には風納土城内ではじめて地上式建物址4棟が発見された。これらの建物址は平面長方形と「呂」の字型、そして平面長方形で基壇を備えた地上建物に分けられる。平面長方形のものからは川石と粘土などを入れた芯積みが確認された。「呂」の字型地上建物は、内部施設が明確に確認されたわけではないが、従来の竪穴住居址の他に、盛土された地上建物ははじめて確認されたものである。また、基壇を備えた地上建物は、基壇のすぐ外側に土を詰めた芯積みの施設の床から、礎石と柱痕が見つかった。今まで確認されたことのない、新しい築造方法である。
このような建物址は、官庁または宗教関連の施設である可能性が非常に高く、今後、王城の構造を把握する上で、重要な情報を提供すると期待される。
18. 風納洞410番地発掘調査
百済時代の木製井戸が発見
同地域は行政区域上、ソウル市松坡区風納洞410番地ほか15筆にあたり、風納土城の東壁(文化遺産指定区域)から南およそ15~20メートルの道路沿いにある。アパート再建築の敷地として面積はおよそ5,696㎡あり、同研究院が2004年7月26日~9月25日にかけて、試掘調査を行った。
同地域は風納土城東壁に隣接した郊外にあたり、水堀の存在と百済遺物の包含層の確認作業を行った。幅12~14メートル、長24~45メートルに3本のトレンチを入れ、地表から約7.4メートルまでを掘削したところ、およそ2メートルまでが埋立土層であり、その下から百済土器が出土したが、遺構の跡は見つからなかった。
また同地域の東北辺にあたる336-1番地一帯においても、アパート再建築のための発掘が、2004年3月25日~5月11日にかけて行われ、百済時代の排水路、竪穴など遺構5基が検出された。排水路は、断面が「U」字形で、長11.2メートル、幅50センチ、深さは最大45センチである。入水部は南側にあり、入水部と北端部の床面の高低差は37センチある。入水部と中間の一部では暗渠になっており、上部・内部からは大甕・軟質の蓋が見つかった。竪穴遺構は長方形もしくは不定形で、内部からは様々な百済土器が出土した。
19. 風納土城住居址
マンション街の地下、漢城百済初期の王城の息吹
風納土城(ソウル市松坡区)は漢江の沖積台地に位置する長楕円形の平城で、総周は3.5キロに達する。
1997年土城内部アパート建築現場で多量の百済土器が出土し、同研究院による緊急発掘調査が行われた。
調査の結果、竪穴住居址19基、数十基の貯蔵用・廃棄用竪穴、土器散布遺構、土器窯、そしてこれらの遺構より早期の3環濠遺構などが確認された。
これまで知られていた漢城百済時代の遺跡のうち最も残りがよく、規模や出土遺物も良質のも多い特に城内の住居址は、平面プランが六角形で、前面の短壁に突出した出入施設があり、粘土・板石を利用したかまど施設などが特徴である。当時の住居址構造、変遷過程を明らかにする重要な手がかりとなる。出土遺物は、土器のほか、瓦、塼類、鉄器、漁網錘、紡錘車、土管など1200点余りで、漢城百済時代の文化相を多角的に分析する上で貴重である。
20. 韓露共同発掘調査
国立文化遺産研究院は2000年以降、ロシア極東地域にある韓民族関連遺跡の発掘調査を進めている。同調査は、ロシア科学院シベリア支部の考古学民族学研究院と共同で行われており、アムール川下流のスチュ島遺跡(2000~2002年)、沿海州ブロチカ遺跡(2003~2005年)を発掘した。スチュ島遺跡は新石器時代に編年される住居址5基、石器工房2基が確認され、遺物は平底土器をはじめ、石剣、石刃核など様々な石器が出土した。住居址と遺物は、アムール川下流における新石器文化の研究をはじめ、中国東北地方、朝鮮半島と日本を結ぶ東北アジア平底土器文化圏の起源、編年、変遷の研究において画期的な資料といえよう。
ブロチカ遺跡は、豆満江河口からさほど離れていない場所にある聚落遺跡である。今回の調査では、新石器時代の住居址3基、初期鉄器時代の住居址20基が見つかった。特に初期鉄器時代のクロウノブカ文化期に編年される住居址・遺物は、戊山虎谷洞、会寧五洞、羅津草島といった豆満江流域をはじめ、中国吉林省、黒龍江省一帯でも見つかっている。学界では、これらの考古文化を「沃沮」「北沃沮」に比定し、盛んな研究を進めている。また春川・新梅里、江陵橋項里といった江原道地域でもブロチカ出土土器に似た土器群が見つかっており、沿海州と韓半島の密接な関連を解明する手がかりとなる。
一方、初期鉄器時代のボルチェ文化に編年される住居址では、様々なオンドル遺構が見つかっており注目される。平面形態や構造面は、朝鮮半島中部地域のオンドルに類似しており、オンドルの系譜・構造・発展の研究に大きな手がかりとなる。
2007年からは、周辺国の歴史認識問題に対応する資料確保のため、アムール川中流地域の靺鞨・渤海時期の遺跡を共同発掘している。2007年度には、トロイツコエ古墳遺跡を発掘し、靺鞨・渤海古墳18基をはじめ、新石器時代の小型竪穴1基の調査を行った。調査の結果、8〜9世紀、中国東北地域において西アムール地域へと渤海の住民であった粟末靺鞨人が移動していったことが確認されており、その埋蔵の方法と墳墓の構造を理解する上で手がかりとなる重要な資料を確保した。2008年と2009年には西アムール地域の靺鞨渤海時代の集落遺跡であるオデロドルコイエ集落跡とオシノボイェ・オゼロ集落跡を発掘調査し、西アムール地域の考古文化の実態に迫った。
また、国立文化遺産研究院はロシア科学院・極東支部・歴史学・考古学・民俗学研究所とも2006年から沿海州所在の韓民族関連遺跡に関する分布現況調査と発掘調査を行っている。
2008年からは沿海州中部・コクシャロフカ-1平城の発掘調査を行い、渤海時代最大規模のオンドルが設けられていた建物址を確認した。コクシャロフカ-1平白の発掘調査は、渤海地方の行政体制を明らかにするもので、渤海復興期に領土を拡張していた様子を示す実証資料となり、渤海が高句麗を継承していたことを再確認するなど、渤海史を研究する上で重要な資料になると考えられる。
21. 義城磨崖菩薩坐像周辺地域に対する発掘調査
考古研究室は2010年11月に4大河川工事区間の一部である義城洛丹堰工事現場から発見された磨崖菩薩坐像周辺地域における埋蔵遺産を確認するため、緊急発掘調査を実施した。
磨崖菩薩坐像は万景山北側の稜線に位置し、洛東江を境界に義城郡と尚州郡に分かれる地域である。磨崖菩薩坐像の左(下流側)には万景山から伸びた岩石が露出しており(ヨンバウィ(龍岩))、右(上流側)は従来の道路の傾斜面と隣接していた。日帝強占期に設置された道路の拡張工事(1984)で万景山の岩盤を発破したが、磨崖菩薩坐像周辺が岩盤と土砂に埋もれ、見つからなくなっていた。ところが最近、洛丹堰工事と関連し、擁壁工事のために岩盤を検査する過程でその姿が再び現れた。
発掘調査の前、磨崖菩薩坐像周辺のGPR探査の結果、磨崖菩薩坐像から前面5~6mまでの石材の反応と垂直断面形状の急傾斜を確認した。電気比抵抗探査の結果、磨崖菩薩坐像から前面5~6m、深さ4~5mまで高比抵抗帯が確認され、GPR探査と類似した結果を示した。
発掘調査は磨崖菩薩坐像の前面の礼拝空間を確認するため、調査坑を長さ8m、幅3mに設定して実施した。その過程で盛土層から最近工事過程で設けられた緑色の安全ネットが見つかった。緑色の安全ネットの下2.5mまでは、1984年万景山北側の岩石を発破した後、川の方に押しやったと推定される大型の岩石と土砂が詰まっていた。この岩石と土砂層は道路の上面から約9m下まで確認された。岩石と土砂層を取り除く過程で、磨崖菩薩坐像の前面2.6m地点から、1984年以前のものと思われる築石が確認された。
築石は磨崖菩薩坐像を丸く取り囲むように築造されており、長さ5.5m、高さ4.2m(横15段、縦10段)であることが分かった。20~40㎝の間知石を菱形で積み上げ、その内部には比較的大きい自然石と発破した石により裏込めた状態である。ところが、この調査では磨崖菩薩坐像と関連した他の遺構や遺物は見つかっていない。
また、住民の情報提供により、磨崖菩薩坐像周辺に他の埋蔵遺産の存在について調べるため、磨崖菩薩坐像から東へ17m離れた地点に長さ5m、幅2mの調査坑を設置した。この地点では、擁壁工事のための穿孔作業の際、現在の傾斜面から道路側に約2.5m地点で岩盤層を確認した。調査坑内の土層は従来の道路面と盛土層によって形成されている。盛土層を取り除く際に確認された岩石面まで露出させようと試みたが、道路崩壊の危険性があり、調査は中断された。内部からは、遺構や遺物は見つからなかった。