百済文化圏遺跡の学術調査

重要な先史、歴史遺跡に関する学術調査の企画を行っており、国が保護している史跡の整備・復元のための調査、史跡指定のための事前調査なども担当している。また、開発や盗掘による損傷、滅失の恐れのある遺跡、地域住民による苦情の余地のある緊急事案の遺跡も調査している。

益山王宮里遺跡

百済文化圏主要遺跡学術調査および遺跡整備事業の一環として、1989年から毎年調査が行われ、築石の城壁の規模が南北492m、東西234mの大規模の王宮および寺院関連施設であることが判明し、城壁と関連した門址、排水溝、暗渠、布石施設などの地下遺構が確認された。銘文瓦、蓮華文瓦当、坩堝など計3,000点余りの重要遺物が出土した。調査の結果、『三国史記』、『東国輿地勝覽』などの文献記録に符合する事実が部分的に確認されたが、遺跡全体の性格は、具体的には把握し切れていないのが実情である。2004年から益山・王宮里遺跡に関する第4次5ヶ年計画を樹立し、調査の足りない部分、全く行われていない部分に対する発掘調査を体系的に行い、この遺跡の考古学的性格とその歴史的意味を探ろうとしている。

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遺跡名 益山・王宮里遺跡
区分 遺跡発掘調査
調査期間 1989年~現在
調査資料 原文資料有り

益山・王宮里遺跡(史跡、1998.9.11指定)は「王宮坪(ワングンピョン)」、「ワンゴミ」、「ワングムソン」と呼ばれ、古代の王宮だったと推定されるので学界はもちろん、一般の人々も関心を寄せてきた。歴史的には百済末期から統一新羅時代まで、ここは政治的、軍事的な要地だったことが 『三国史記』などの文献によって知られており、馬韓の箕準(キジュン)王遷都説、百済・武(ム)王の金馬遷都説または別都説、統一新羅時代の安勝(アン・スン)の報徳国都城説、後百済の甄萱(キョン・フォン)の都城説など、古代王宮と関連した様々な学説が持続的に提起されている。1965年の王宮里五重石塔(国宝、1997.1.1指定)が解体・復元された時、塔の中から高麗時代のものと推定される金製金剛経板、硝子製舍利瓶、金製盒、各種荘厳具などが発見され、国宝に指定された。塔の周辺からは「上部乙瓦」、「官宮寺」などの銘文瓦が出土した。これを受け、この寺院跡が王宮と関連のある王宮内寺院であった可能性が提起され、遺跡の性格に対する謎が深まっている。

益山・王宮里遺跡は、百済文化圏遺跡整備事業の一環として1989年から2012年末まで、文化財研究所(扶余文化財研究所)により毎年調査が行われた。調査の結果、百済の泗沘時代の王城の構造や性格が明らかになった。東西240m、南北490mの城壁に取り囲まれ、平面は長方形であることが確認された。城壁の関連施設としては門址7か所をはじめとし、溝、暗渠なども発見された。東西の擁壁4を基準に区画された前半は宮殿、後半は後苑であり、宮殿領域には7×4間規模の建物址や瓦積み基壇の建物址が見つかった。東西の擁壁4と隣接した庭園施設が確認されており、後苑領域では大規模の水路施設(環水溝、曲水路)が発見された。その他、工房址などの生産施設、石塔・金堂・講堂址などの寺院施設もあった。遺物は、首府銘の印章瓦、蓮華文軒丸瓦、中国製青磁、瓦製の煙突の屋根など約7,000点の遺物が出土した。

image 王宮里遺跡の全景(航空撮影)
image 南壁東側の門址盛土層の全景
image 東壁の築造状態
image 東西築石1築造状態
image 大型建物址周辺の全景(航空撮影)
image 1棟2室の建物址の全景
image 瓦積み技法の連結施設の全景
image 後苑の全景(航空撮影)
image 庭園中心部の全景
image 庭園出土の庭園石
image 西北側地域の大型築石排水路周辺の全景
image 大型トイレ1の全景
image 大型トイレ1出土の後処理用木の棒
image 西北側地域工房出土の硝子生産関連遺物
image 西北側地域工房出土の金生産関連遺物
image 寺院関連施設の全景(航空撮影)
image 王宮里5重石塔から発見された舎利荘厳具一括
image 王宮里遺跡出土遺物一括
image 環水溝、曲水路の全景
image 後苑領域の全景

調査期間
年次 調査地域 調査内容 備考
第1次5ヶ年
(1989〜1993)
五重石塔周辺および寺域の東·西·南側一帯(約31,000㎡) ・金堂址、講堂址、瓦窯跡、築石など
・銘文瓦など1,570点
報告書を発刊(1992年)
第2次5ヶ年
(1994〜1998)
五重石塔周辺および東·南·北側城郭角地域(約20,000㎡) ・築石、建物址、城壁基礎部など
・蓮華文瓦当など481点
報告書を発刊(1997年)
第3次5ヶ年
(1999〜2003)
西城壁および西北壁の城内一帯(約26,000㎡) ・門址、城壁、工房址など
・蓮華文瓦当など891点
報告書を発刊(2001、2002年)
2004 第16次 西北側一帯(2,000㎡) ・大型トイレ、工房址など
・印章瓦49点
益山市代行事業第1次 5重石塔周辺(23,000㎡) ・東西築石3・4、庭園など
・中国製青磁片など203点
2005 第17次 東壁一帯(2,400㎡) ・東壁、敷石施設など
・灯盞など111点s
益山市代行事業第2次 5重石塔周辺(22,000㎡) ・大型建物址など
・印章瓦など254点
2006 第18次 車輪の跡および庭園周辺地域(4,100㎡) ・車輪の跡、庭園など
・印章瓦など57点
報告書を発刊-2006
益山市代行事業3次 5重石塔周辺(9,000㎡) ・南壁中央門址など
・印章瓦など26点
2007 第19次 庭園北側地域(4,000㎡) ・庭園水路施設など
・庭園の造園石など148点
益山市代行事業第4次 西壁中央部の内側(4,000㎡) ・西壁門址、階段施設など-茶缶など172点
2008 第20次 庭園北側丘陵地域(4,000㎡) ・曲水路、水路施設など-印章瓦など73点 益山市代行事業第5次
益山市代行事業第5次 南·東壁の内外側地域(4,000㎡) ・盛土層、東壁の溝など소문軒丸瓦など129点
2009 第21次 庭園北側の丘陵頂上部地域(4,000㎡) ・曲水路、水路施設など-印章瓦など15点 国際学術大会-2009
益山市代行事業第6次 東壁中央部地域(4,000㎡) ・東壁門址、石列施設など-印章瓦など23点
2010 第22次 東壁中央部および庭園北側の丘陵地域(3,000㎡) ・環状溝、建物址、東壁など-印章瓦など108点 報告書を発刊-2010
益山市代行事業第7次 北壁一帯(4,800㎡) ・環状溝、北門址など-銘文瓦など570点
156,500㎡(重複を含む) 金堂址、講堂址など遺構92基-銘文瓦など遺物4,769点 ・中間報告書7冊
・国際学術大会1回

2013~2014年度には未調査地域および整備・復元のための資料を確保するために、体系的でかつ精密な発掘調査を行う予定である。とくに、後苑領域に対する調査を完了し、2014年には城壁の外側を調査することにより、王京の存在について究明していく。


調査内容
年次 調査対象地域 調査面積㎡ 予算(百万ウォン) 備考
2012(第24次) 丘陵頂上部の北側 8,000 400
2013(第25次) 北壁の内側地域 8,000 400
2014(第26次) 城壁の外側地域 10,500 400 王京の存在について究明
城壁の外側地域 26,500 1,200


扶余・王興寺址

扶余・王興寺は『三国史記』、『三国遺事』などの文献に創建(法王2年、西暦600年)と完工(武王35年、西暦634年)の関連記事が記載されている百済時代の重要な寺院であり、1934年、扶余・窺岩面・新里一帯で王興銘の瓦片が収拾されたことにより、この地域は王興寺の位置として比定された。1946年、ここから高麗時代の石造仏坐像1躯が発見され、国立扶余博物館へと移転された。その後、王興寺の重要性が認められ、1982年に忠清南道記念物に指定された後、さらに史跡に指定(2001.2.5、指定面積200,170㎡)された。これを受け、国立扶余文化財研究所は2000年から発掘調査計画を樹立し、現在まで8回にわたる発掘調査を行った結果、高麗時代の建物址、百済寺院の伽藍配置を示す木塔址・回廊址・擁壁・進入路などが確認され、寺域の東の外郭地域では百済および高麗時代の瓦窯跡11基が発見された。

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遺跡名 扶余・王興寺址
区分 遺跡発掘調査
調査年 2000年〜現在
調査資料 原文資料有り

2012年には2004年、2009年の調査によりその存在や規模が確認された金堂の西側に位置する西建物址と、寺域の西側一帯の建物址に対する調査が進められた。西建物址は、南北の長さ44.45m、東西の幅12.6mの長方形の建物址であり、内部は建物の中央および北側の内部から確認された中心部の四方と、連続した基礎から考えて建物の東と西に四方5mの部屋が設けられた母屋があったと推定される。母屋は建物址の南にまで続き、8部屋によって構成されたと考えられる。

また、寺域の西側の建物址は東西32.4m、南北34.8mの規模であり、寺域西側の境界にある基盤に隣接して建てられていた。石材で仕上げられた建物の内部からは石列6基が見つかっており、区域毎に上部構造の異なる施設が構築されたと思われる。


調査内容
年次 調査期間 調査地域 面積 調査内容 出土遺物
第 1次 2000.09.08~ 11.02 寺域北東側 1,000㎡ 寺域から外れた地域では遺構は確認されず 蓮華文軒丸瓦など
第 2次 2001.10.05 ~ 12.07 寺域北側 2,000㎡ 高麗時代以降の建物址6棟、百済時代の建物址の一部を確認 鬼面文滴水瓦など
第 3次 2002.03.28 ~ 07.17 寺域北側、
寺域南側
6,600㎡ 寺域北側の再調査の際、階段址と築石を確認、東回廊址・木塔址の一部・東西築石を確認 銘文瓦など
第 4次 2003.10.14 ~ 12.12 寺域南東側 1,000㎡ 西回廊址など百済の建物址2棟、東西の築石を確認 蓮華文軒丸瓦
第 5次 2004.04.16 ~ 06.29 寺域南西側 1,000㎡ 西回廊址の東側の内部を調査、東西の築石の範囲を確認 蓮華文軒丸瓦·垂木先瓦·塼など
第 6次 2005.10.10~ 11.30 寺域東側 4,032㎡ 百済時代の瓦窯跡3基を確認 蓮華文軒丸瓦·灯盞など
第 7次 2006.04.05~ 10.31 寺域東側 1,022㎡ 百済の瓦窯跡11基、高麗の瓦窯跡1基を確認 蓮華文軒丸瓦·「王興」銘瓦など
第 8次 2007.03.28~ 11.26 寺域中心部、寺域南側 3,300㎡ 木塔址と東西の築石および南北の築石を調査 舎利器および舎利供養具、垂木先瓦など
第 9次 2008.03.17~ 10.10 寺域中心 1,300㎡ 百済時代の伽藍を確認、金堂址・木塔址 蓮華文軒丸瓦など
第 10次 2009.03.09~ 11.09 寺域中心 2,300㎡ 講堂址および西側付属建物址を確認、金堂址左右の建物址の規模を確認 蓮華文軒丸瓦、鴟尾など
第 11次 2010.04.28~ 12.31 寺域西側外郭 15,552㎡ 寺域の西側の南北の擁壁、進入施設を確認 蓮華文軒丸瓦、鴟尾など
第 12次 2011.4.25~ 9.30 寺域東側 2,274㎡ 百済時代の瓦窯6基を確認 蓮華文軒丸瓦など
第 13次 2012.4.5~ 11月 寺域西側 2,874㎡ 西建物址、寺域西側一帯の建物址(推定)を確認 喇叭、油皿など

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image 2004年度発掘調査遺跡の全景
image 文様塼の出土状態
image 窯跡の全景(南)
image 第1号窯(南)
image 第3号窯(南)
image 王興寺址木塔址の全景
image 東西築石の全景
image 木塔址および築石の全景
image 木塔址の全景
image 木塔址心礎石の露出状態
image 舎利空間における石材蓋の露出状態
image 石材蓋の開封後における舎利箱の露出状態
image 青銅舎利箱および金・銀製舎利瓶
image 青銅舎利箱の銘文
image 銘文の細部
image 鎮壇具一括
image 塑造装飾
image 第11次発掘調査西側境界区域の全景航空写真)
image 第11次発掘調査西側境界区域の擁壁の角の部分
image 西建物址の全景
image 寺域西側の建物址の全景

扶余・定林寺址

扶余定林寺址(史跡)は、忠清南道・扶余郡・扶余邑・東南里254番地一帯に位置する百済時代の寺院遺跡であり、現在の寺域内に扶余定林寺址五重石塔(国宝、1962.12.30)と扶余定林寺址石仏坐像(宝物、1963.1.21)が存在し、それぞれ国宝と宝物に指定・管理されている。また、現在までの発掘調査により明らかになった蓮池・中門・金堂・回廊址などが整備されているので、観覧しやすい環境が整えられている。

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遺跡名 扶余・定林寺址
区分 遺跡発掘調査
調査年 2008年~2010年
調査資料 原文資料無し

五重石塔の1層の塔身には660年8月15日、唐の蘇定方による勝戦記功「大唐平百済国」が刻まれ、碑文の最後に「刊玆宝刹用紀殊功」と称したことが記されている。石仏坐像は定林寺址講堂址に位置し、高麗時代に建て直された際に安置された本尊仏であったと推定される。

寺院の名が定林寺址と呼ばれるようになったのは、日本の植民地時代、講堂址の周辺から「大平八年戊辰定林寺大蔵唐草」という銘文のある高麗時代の瓦片が出土した以降であり、これを考え合わせると、この寺院は少なくとも高麗時代の顕宗(ヒョンジョン)の代(在位:1009~1031)まで法灯を伝えていたことが分かる。

一方、現在まで扶余・定林寺址に対する発掘調査は1942〜1943年、朝鮮総督府により寺院跡全域にわたり行われ、1979〜1984年まで忠南大学博物館・扶余博物館・文化財研究所により寺院跡全域および蓮池について行われた。1989年に定林寺址遺跡試掘調査団により旧・高麗人蔘廠址に対し、1992年に円光大学博物館により講堂址に対する発掘調査が実施された。

その後、扶余郡が「扶余・定林寺址遺跡整備・復元のための事前調査」計画を樹立したことがきっかけとなり、国立扶余文化財研究所は2008年から寺域中心部に対する全面調査を行った。

2008年には講堂址および東側一帯を中心に対象地域が選ばれ、百済時代の講堂址・東側の付属建物址・築石の排水路、高麗時代の東回廊址の礎石下の積み石などについて調査が実施された。2009年には西側一帯、金堂址および中門址などを対象に、定林寺創建以前の工房の遺構、定林寺が創建された際の回廊址・築石の排水路・西側の付属建物址、高麗時代の金堂址•中門址、窯跡などの調査が行われた。2回の発掘調査により、定林寺の寺域の敷地は傾斜式の盛土技法により構築されたものであり、定林寺が創建される以前、この一帯は工房関連施設として運営されたが、寺院の創建後なったこと、高麗時代の1028年以前に建て直され、焼失した後にまた再建されたことが明らかになった。2010年、第10次発掘調査は現在の覆い屋(講堂址)の裏の約5,000㎡と金堂址〜石塔址、講堂址〜金堂址の間で行われた。その結果、現在の覆い屋の裏の東側一帯では百済時代の定林寺関連のものと推定される北僧房址・排水路・擁壁、高麗時代の定林寺関連のものである礎石下の積み石が確認された。金堂址と石塔址の間における探索トレンチによると、創建以前の盛土層の下部に木炭層が確認され、創建以前の生活の様子を窺うことができる。


調査内容
年次 調査期間 調査機関 調査地域 調査内容 備考
第 1次 1942年以降3~4年間 朝鮮総督府博物館 寺院跡全域 中門·金堂·講堂、東西の回廊
第 2次 1979.10.15~1980.3.15 忠南大学博物館 寺院跡全域(約9,917㎡) 中門·金堂·講堂、寺院跡の東北の建物址 ユン・ムビョン,1982、「定林寺址発掘調査報告書」
第 3次 1992 円光大学博物館 講堂址 講堂址の細部調査
第 4次 1980. 10.11~12.23 忠南大学博物館、国立扶余博物館、国立文化財研究所 扶余中学校校庭の西北(約2,942㎡) 南門址の基壇、東西の蓮池、蓮池の間を貫通する中心通路 扶余・定林寺址蓮池遺跡発掘報告書(1987)
第 5次 1983.11.26 ~ 12.30
1984.4.12 ~ 4.28
忠南大学博物館国立扶余博物館 第1次発掘調査隣接地域(約2,314㎡)
第 6次 1983.11.26 ~ 12.30
1984.4.12 ~ 4.28
忠南大学博物館国立扶余博物館 第1次発掘調査隣接地域(約2,314㎡)
第 7次 1989.10.17~12.15 定林寺址試掘調査団 旧・専売庁高麗人参廠址(約59,504㎡) 高麗時代建物址2期、百済時代の竪穴住居址1基、井戸址1基、瓦窯跡1基 扶余・定林寺址隣接地域試掘開報(1990)
第 8次 2008. 3.17~11.30 国立扶余文化財研究所 講堂址、回廊址、付属建物址など 百済時代の講堂、東回廊、付属建物址、築石排水路、高麗時代の東回廊址 扶余・定林寺址第8次略報告書
第 9次 2009.3.9~2010.2.5 国立扶余文化財研究所 西回廊·金堂·南門址一帯など 百済時代の西側の付属建物址、西回廊址、築石排水路、工房関連遺構、高麗時代の中門、金堂址、窯跡など 扶余・定林寺址第9次略報告書
第 10次 2010.7.5~2011.1.13 国立扶余文化財研究所 寺域北側一帯(約5,000㎡) 伽藍の北東側の境界擁壁および北僧房址(推定) 扶余・定林寺址第10次略報告書

image 2008~2009年定林寺址発掘調査の全景
image 高麗窯
image 高麗定林寺金堂址
image 高麗定林寺中門址
image 高麗「定林寺」銘の瓦
image 百済講堂址の基壇および外郭補強施設
image 百済講堂址の平積式瓦積み基壇の断面
image 百済講堂址の合掌式瓦積み基壇の断面
image 百済定林寺の講堂址および東建物址
image 百済定林寺の東建物址
image 百済定林寺の西回廊址
image 百済定林寺塑造像
image 百済定林寺井戸形マンホールおよび東側一帯の遺構
image 百済定林寺井戸形マンホールの細部
image 百済定林寺創建以前の工房遺構
image 推定百済北僧房址の内部
image 推定百済北僧房址瓦積み基壇と築石
image 推定百済北僧房址(東から)

扶余・官北里百済遺跡

史跡の扶余・官北里百済遺跡は百済時代の王宮跡と推定される場所であり、1982年と1983年に忠南大学が発掘調査を行った際に百済時代の池が確認された。さらに1987〜1988年の発掘調査の際には建物址、下水道、道路遺跡が発見され、この一帯が王宮であった可能性が強くなった。2001年から現在まで同研究所では三回にわたる発掘調査を行い、その結果、大規模の工房関連施設址と建物址、東西方向の擁壁、6基以上の倉庫施設、南北方向の排水路施設などが確認された。今後、調査が完了した西側の発掘調査を続けて行う予定である。

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遺跡名 扶余・官北里百済遺跡
区分 遺跡発掘調査
調査年 2005年〜2009年
調査資料 原文資料有り

扶余・官北里百済遺跡(史跡)は百済・泗沘期(538〜660年)王宮跡の最有力候補である。1982年に礎石と瓦当など百済時代の片鱗を示す遺物が多数発見され、百済・泗沘期の王宮跡の可能性が浮かび上がってきた。その後、1982年から1992年まで7回にわたる忠南大学博物館の発掘調査により、百済時代の池と道路、様々な建物址などが確認された。その成果に基づき、2001年にはこの遺跡が史跡に指定され、国立扶余文化財研究所が現在まで発掘調査(第8次〜第13次)を続けている。

2001~2002年度(第8次)調査では現国立扶余文化財研究所の南と南東地域に対する部分的な調査を行っていた池の調査を完成させる一方、百済・泗沘期に盛土した敷地とその縁を保護する石列、瓦屋跡、金・銀・金銅・鉄・硝子製品を製作していた工房跡などを発見した。

2003年度(第9次)調査では同研究所の南西地域からマクワウリ、サルナシの実、桃、ヤマブドウなど様々な果物の種の入った百済・泗沘期の倉庫施設が確認された。これらの倉庫は穴を深く掘り、その中に板と角材で箱を作り、貯蔵施設として利用したものである。

2004年度(第10次)調査では第9次調査地点よりさらに西側で行われたが、木の貯蔵施設だけでなく、石の貯蔵施設をはじめ、多数の倉庫用穴が発見された。このような多様なタイプの地下貯蔵施設により、当時、貯蔵品の種類が豊富でその数も膨大だった点、貯蔵対象によって貯蔵方法も様々だったという点などが確認できた。

2005~2006年度(第11次)調査は研究所の西側全域で行われたが、日本の古代王宮の正殿と、規模や形の面で比較できる大型の瓦建物址をはじめとし、百済の上下水道システムを示す木の水槽と瓦の導水管路2組を発見した。さらに、木材と石材の貯蔵施設、百済・泗沘王宮の区画および道路体系を復元するのに参考となる道路と排水路、石垣なども発見された。

2007年度(第12次)調査は同研究所の西南地域にまで範囲を広げ、続けている。石列、瓦列および排水施設などがさらに確認されている。

2008年度(第13次)調査では2006年度「ホ」地区調査の際に発見された第2号瓦配水管の残存列が見つかり、低湿地を埋め立てて作られた擁壁跡、石垣、擁壁など敷地造成の北限と推定される施設を調査した。また、9世紀中頃以降と推定される護岸の築石および自然水路、建物基壇と推定される石列1基および井戸3基など、多数の遺構の調査が行われた。


調査内容
調査期間 調査地域(面積) 調査内容 発掘機関
1998年~1992年
(第1~第7次)
現国立扶余文化財研究所の南および東一帯(約3,500坪) 蓮池、道路遺構、扶蘇山麓の築石、井戸跡、建物址4基、窯跡、鉄器製作所1基を調査 忠南大学博物館
2001年~2002年
(第8次)
・蓮池および蓮池周辺(イ地区、約515坪)
・蓮池の東一帯(ロ地区、約1,400坪)
蓮池西側の未調査地域に対する調査、·工房関連施設跡などを調査 国立扶余文化財研究所
2003年
(第9次)
・蓮池およびロ地区の調査完了
・イ地区西側(ハ地区)の調査(約1,050坪)
蓮池周辺の木柱列を確認、建物址および様々な穴を確認、工房関連施設を調査·木製貯蔵施設3基を確認(1基を調査)
2004年(第10次) ・選挙管理委員会南・西側(ニ地区13,000坪、ホ地区1,900坪)
・ハ地区木製貯蔵施設2基を調査
木材貯蔵施設4基、石材貯蔵施設1基·各種穴、大型建物址1基、南北の溝遺構1基を調査 国立扶余文化財研究所
2005年~2006年
(第11次)
選挙管理委員会南・西側(ニ・ホ地区、約10,000㎡) ・大型建物址1基、瓦基壇建物址1基本
・木製水槽および瓦の送水管3基、道路と排水路、石垣跡、各種穴を調査
BCH
2007年
(第12次)
ホ地区南西側一帯
(ホ地区約1,900㎡)
築石排水路、擁壁および瓦列遺構、井戸を調査
2008年
(第14次)
ヘ地区西側一帯 百済時代石列遺構などを調査

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image 蓮池の露出状態
image 木製貯蔵倉庫第1号
image 第2号木製水槽と瓦列水路
image 大型建物址の全景
image 貯蔵施設の集中分布地域
image 池の露出状態
image 2006年発掘調査地域の全景
image 地下木製貯蔵施設第2号
image 大型建物の全景
image 第2号木製水槽および導水管路
image 第1号、第2号木製水槽の全景
image 第1~第2次擁壁および瓦敷き施設
image 1区域調査の全景
image 1区域土製導水管
image 2008年発掘調査の近景
image 2008年調査地域の全景
image 瓦敷き施設
image 石垣と瓦排水
image 道路
image 方形集水施設
image 石造排水施設
image 瓦列遺構および方形集水施設
image 擁壁

扶余・軍守里寺址

扶余・軍守里寺址は百済・泗沘期(A.D.538〜660)の寺院跡であり、忠清南道・扶余郡・扶余邑・軍守里19-1番地一帯に位置する。同遺跡は日本の植民地時代である1935〜1936年、2回にわたって行われた発掘調査により明るみに出た。当時の調査は石田茂作と斉藤忠などにより、約1ヵ月半という短期間で行われた。調査により、軍守里寺址は1塔1金堂の百済の典型的な伽藍配置であり、付属建物址の鐘楼・経蔵址をはじめとし、東西の回廊址、東の建物址などの遺構が確認された。

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遺跡名 扶余・軍守里寺址
区分 遺跡発掘調査
調査年 2005年~2011年
調査資料 原文資料有り

木塔址の心礎石の上部から仏像2体が出土し、軍守里寺址が寺院跡であることを証明する決定的な証拠となった。周辺からは装身具や金銅片•箱型塼片などの遺物が多数発見され、その重要性が認められた。その後、国家指定文化財である史跡に指定(1963.01.21、指定面積11,213㎡)・管理されている。

軍守里寺址に対する再調査は70年ぶりの2005年度に扶余郡が扶余・軍守里寺址整備・復元計画を樹立し、国立扶余文化財研究所に学術発掘調査を依頼したことにより始められた。これにより、軍守里寺址の考古学的土層の前後関係に関する調査とともに、寺院の正確な位置や規模を確認し、軍守里寺址と宮南池(史跡)との関係を究明するため、発掘調査を進めた。

2005年(第3次)、2006年(第4次)の2回にわたって調査が行われ、軍守里寺址木塔址・金堂址などの正確な位置と規模が確認できた。また、新しく木塔址心礎石の西側から斜道を確認する成果も挙げた。一方、第1〜第2次報告書で報告した回廊址および東方基壇址は周辺地域の開墾や削平により消失していた。

2007年度調査(第5次)では、以前その輪郭を確認した金堂址に対する追加調査、寺域東側の一帯に対する調査を行った。金堂址に対する調査の結果、金堂址の規模は27.27m×20mと推定されるが、東側の縁が消失し、正確な規模は把握できない。基壇部は基壇土の外郭を堀壙し、瓦や塼などを利用して構築しているが、南側は合掌式瓦積み基壇、北側は垂直横列式基壇という築造方法が確認された。また、金堂址の外郭として南・西・北側の各中央から階段址の最下部施設が見つかった。寺域の東側一帯からは百済時代遺物を含んだ層、円形の敷石施設、瓦廃棄跡などが確認された。第3次調査(2005年)で見つかった瓦積み列に対する精密調査の結果、建物址および歩道施設などの遺構としての可能性は確認できなかった。円形の敷石施設の下部からは焼土層が見つかったが、はっきりとした性格は究明できなかった。この施設をはじめとし、東側一帯の遺構と中心寺域との関連性については、この一帯の全般的な土層の様相とともに、今後さらに精密調査を行い、明らかにする予定である。出土遺物としては百済・泗沘期の蓮華文軒丸瓦、「巳」の字銘の印章瓦片、鴟尾片などがある。

2011年には日本の植民地時代の調査の時に見つかった西回廊址および西付属建物址一帯に対し、遺構の存在について調べた。西回廊址は、後に農耕作業によって遺構のほとんどが削られたと推定される。西回廊址の北西では、百済の泗沘時代の軒丸瓦や土器類などが収集された瓦の廃棄跡の下部から南北1間、東西1間以上の建物址が確認された。


年次 調査期間 調査機関 調査地域 調査内容 出土遺物
第 1次 1935.09.29~10.11 古跡研究会 寺域東側一帯 東方建物址を確認 坪瓦など
第 2次 1936.09.14~10.14 古跡研究会 寺域中心部 木塔・金堂・講堂・回廊址など 仏像2躯など
第 3次 2005.07.26~12.27 国立扶余文化財研究所 寺域中心部 木塔・金堂・東回廊・東方建物址など 蓮華文軒丸瓦、「丁巳」銘の印章瓦、箱型塼など
第 4次 1935.09.29~10.11 国立扶余文化財研究所 寺域中心部 木塔·金堂址など 蓮華文軒丸瓦など
第 5次 1935.09.29~10.11 国立扶余文化財研究所 寺域中心部寺域東側一帯 金堂址、東側遺構など 蓮華文軒丸瓦、鴟尾片など

image 軍守里寺址の航空写真
image 木塔址の全景
image 金堂址瓦積み基壇および礎石
image 金堂址の合掌式瓦積み基壇(南)
image 木塔址の心礎石の露出状態(西)
image 木塔址塼積み基壇
image 印章瓦(「巳」,「毛」銘など)
image 垂直横列式瓦積み基壇の築造状態
image 鴟尾片
image 各種無文・箱型塼片
image 各種蓮華文軒丸瓦
image 各種装身具
image 各種生活用品
image 軍守里寺址・金堂址および木塔址
image 建物址の全景(西→東)

益山・帝釈寺址

1993年11月5日から1994年1月5日まで、円光大学の馬韓・百済文化研究所(団長・金三龍(キム・サムニョン))によってはじめて試掘調査が行われ、その結果、南北の一直線上に配置された木塔•金堂•講堂址などが確認された。出土遺物としては7世紀前半〜統一新羅時代の瓦当などがある。寺院跡とは別に、2003年5月〜6月(第1次)と、2004年5月〜6月(第2次)に円光大学博物館により帝釈寺址北東側の、百済の窯跡と推定されていた地域に対する試掘調査が行われた。その結果、調査地域一帯から帝釈寺址で使われていた7世紀前半の蓮華文軒丸瓦•塑造天王像•壁の一部などが多数出土し、同地域が帝釈寺址が焼失した後、その残骸を廃棄した場所であることが分かった。

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遺跡名 益山・帝釈寺址
区分 遺跡発掘調査
調査年 2007年~2012年
調査資料 原文資料有り

益山・帝釈寺址(史跡)は、全羅北道益山市王宮面王宮里247-1番地(宮坪1キル)一帯に位置し、百済・武王の益山地域に対する支配と関連した王室寺院址という歴史的意味において注目を集めてきた。百済の武王(600~641)時代に築造された王城である王宮里遺跡が約1.4㎞西に、北西約5㎞の地点には弥勒寺址、北北西約6㎞の地点に獅子岩などの関連遺跡が位置している。
帝釈寺の造営については、中国の六朝時代の文献である『観世音応験記』によると、百済の武広王(武王)が枳慕蜜地(益山の旧名)へ遷都し、帝釈精舍を建てたが、貞観13年(639、武王40年)、雷雨により仏堂と7重木塔、廊房が全焼したと記されている。
帝釈寺は1993年、円光大学・馬韓百済文化研究所の試掘調査によりその実体が明るみに出た。その時、1塔1金堂の伽藍配置が確認されており、「帝釈寺」銘の瓦、忍冬唐草文平瓦当など7世紀百済瓦が多数出土した。
また、2003~2004年には王宮里の瓦窯址として知られていた帝釈寺址の北東地域に対する試掘調査が行われた。この時、7世紀前半の蓮華文軒丸瓦、銘文瓦、焼けた塑像、壁の一部などが見つかり、瓦窯址ではなく帝釈寺と関連のある廃棄場であることが明らかになった。
百済の益山への遷都または別都説と関連した王宮里遺跡(王宮城)と弥勒寺址との関連性が提起され、帝釈寺址に対する整備事業が2002年から益山市により進められている。その一環として2007~2012年にわたり、当研究所は史跡内の土地の買い上げ、障害物の撤去が進んでいる地域を中心に、本格的な発掘調査に取り組んでいる。
第1次調査(2007.6~2008.8)では、木塔址、金堂址、講堂址など寺域の中心部(9,100㎡)を、第2次調査(2008.11~2009.12)では中門址、回廊址、付属建物址など寺域の外郭の一部を含む地域(15,118㎡)を、第3次調査(2011.9~2012.10)では講堂址の西側における買い入れの済んでいない土地や僧房址、東西の回廊址の一部(16,512㎡)を中心に発掘調査し、伽藍配置や寺域の規模を確認した。帝釈寺の伽藍配置は基本的に泗沘期の寺院様式とほぼ同一であるが、東西の回廊の距離は約104m、中門と僧房との距離は約174mと、単一の構造としては最大である。
木塔址、金堂址、方形の建物址など、帝釈寺址の中心建物の築造方法は、共通の特徴を持っている。まず、地形の条件に合わせて地下を掘削し、基壇の基礎を築いてから地上の版築基壇を高く造成する点である。
とくに、木塔址と金堂址の間の西側から、木塔址と規模や築造方法が同一の方形建物址が新しく発見された。これは帝釈寺の変遷の様子を知る上で、新しい端緒を提供している。また、この建物と木塔の築基部の四隅からは、基壇の基礎施設を構築するために設置された作業用の地下通路が見つかった。
一方、寺院の造成や運営時期を明かす様々な遺物が発見されたが、主に、金堂址の西側基壇の外部、木塔址の東と北の基壇周辺から多く出土した。そのうち、百済の忍冬唐草文平瓦当、蓮華文軒丸瓦、印章瓦、統一新羅時代の銘文瓦など、多様な瓦類が大部分を占める。とくに、金堂址西側基壇の周辺からは完成形を含む約20点の忍冬唐草文平瓦当が出土した。
その他にも「丁易・丁易寺」銘瓦、「辰•午・止」銘印章瓦、箱型塼、壁の一部、鴟尾、青銅器の破片などが見つかった。


益山帝釈寺址および周辺の廃棄場に対する調査状況
区分 調査期間 調査機関 調査地域 調査内容
寺域試掘調査
1993.11.05~12.09
円光大学校
馬韓・百済文化研究所
寺域中心部
(1,650㎡)
· 金堂址、講堂址
· 軒丸瓦など19点
廃棄場試掘調査
第1次
(2003.03.17~05.12)
円光大学校博物館
廃棄場
(3,000㎡)
· 帝釈寺建物廃棄場
· 塑像天王象など64点
第2次
(2004.04.06~06.30)
廃棄場
(3,000㎡)
· 帝釈寺建物廃棄場
· 壁の一部など43点
寺域発掘調査
第1次
(2007.06.22~2008.08.14)
国立扶余文化財研究所
寺域中心部
(9,100㎡)
· 木塔址、金堂址など
· 平瓦当など274点
第2次
(2008.11.26~2009.12.29)
寺域中心部
(15,118㎡)
· 中門址、東回廊など
· 銘文瓦など32点
第3次
(2011.09.07~2012.10.12)
寺域中心部
(16,512㎡)
· 講堂址、僧房址など

image 益山・帝釈寺址の伽藍配置図
image 西回廊址の東側基壇部(東から)
image 中門址の西側の南回廊址(東から)
image 南回廊址の土台について(北西から)
image 寺域南端の土台について(西から)
image 講堂址の航空写真
image 講堂址の西側の全景
image 僧房址の航空写真
image 僧房址の全景(西から)

瑞山・普願寺址遺跡

瑞山・普願寺址遺跡(史跡、1987.7.10指定)は周辺に百済の微笑みと呼ばれる「瑞山磨崖三尊仏像」が、寺院跡からは1968年に百済金銅如来立像が出土し、その創建年代を百済時代まで遡って推定することができる。最古記録としては長興に位置する宝林寺の普照禅師彰聖塔碑に827年に「花山・勧法師の下で修学し、伽耶夾山の普願寺で正式に僧侶(受具)となった」と記され、9世紀始めには既に寺院が存在していたことが分かる。『高麗史』によると、高麗・景宗(キョンジョン)1年(975)に、光宗(クァンジョン)の王師だった法印国師の浮屠(僧侶の舎利や遺骨を祀る墓塔)が、景宗3年(978)には浮屠碑が建てられたと記されている。その後、靖宗(チョンジョン)2年(1036)にも経律の試験が行われたという記録があることから、当時この寺院の影響力が推定できる。

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遺跡名 瑞山・普願寺址遺跡
区分 遺跡発掘調査
調査年 2006年~2012年
調査資料 原文資料無し

記録によれば高麗時代に全盛期を迎え、朝鮮時代まで法灯を伝えたが、その後は民家が建てられ、以前の栄光の痕跡は消えてしまったという。

これを受け、忠清南道と瑞山市は、寺域の総合的な整備を行うために、2006年から国立扶余文化財研究所と協約を結び、国立扶余文化財研究所は2006年から2012年まで、計7回にわたって発掘調査を行った。

寺域の西側には五重石塔が位置し、高麗時代の中盤~朝鮮時代の後半の寺院建物址が重なった状態で発掘された。上層には、朝鮮時代中盤の寺院関連の建物址が五重石塔周辺に分布しており、普願寺の最終的な伽藍として記されている「講堂寺」関連の寺域と考えられる。

下層から確認された建物址は高麗時代後半~朝鮮時代初めにおける普願寺の中心建物だと推定される。下部から確認された遺構は、区域別にグループとなっているが、中心部は西回廊と南回廊址の存在から考えると、回廊に囲まれた形だと考えられる。南東は擁壁をもって境界が造られ、内部は大きく2段構成の建物群が見つかっているが、上段と下段の建物址は軸を別にするなどの様子が確認された。南の建物址は、中心部の建物址とは別なグループに属し、先代の寺院が多院式構造であった可能性を示唆している。

普願寺は法印国師宝乗塔および塔碑、文献資料などを通じて非常に繁盛していたことが知られていたが、創建の時期や廃寺の時期などは明らかではなかった。しかし、今回の調査により、現在の五重石塔の位置する寺域中心部から最終的な伽藍の範囲や造成の時期が確認された。また、東側の調査により9~10世紀の青磁をはじめとする高麗時代の遺物が多数出土したので、創建されたあるいは繁盛していた高麗時代の伽藍が存在した可能性が開かれた。また、史跡に指定されたほぼ全域において高麗時代の遺構が確認されており、一部の東側の尾根にまで続いていることから、本来の寺域の規模が非常に大きかったことが分かる。

しかし、普願寺址発掘調査の目的の一つである瑞山磨崖三尊仏と関連のある百済の寺院は、現在までの調査では、普願寺址の寺域にあったとは非常に考えにくい。追加でこの周辺地域に対する調査が必要だと考えられる。


瑞山普願寺址に対する発掘調査現状
年次 調査期間 調査地域(面積) 調査内容 出土遺物 備考
第1次 2006.03.~2006.06 史跡北東区域
(1,300㎡)
*事務室予定敷地
建物址、石垣址、歩道施設などを確認 「丙子」銘瓦、中国製青磁、日暈底青磁、青磁皿+二面扁壷(鎮壇具)など  
2006.06.~2006.12. 五重石塔周辺一帯の寺域西側
(5,000㎡)
金堂址、帯状基礎など朝鮮時代の建物址を確認 「普願寺三寶」銘瓦、龍文平瓦当、蓮華文軒丸瓦、青銅浄瓶、青磁受皿など  
第2次 2007.03.~2007.12. 寺域の西側(7,703㎡) 石垣址、建物址などを確認。金堂址など中心建物址に対する詳細調査 元祐通寶、金銅風鐸、鬼目文平瓦当、「三宝」銘瓦、「內贍」銘粉青印花文皿、墨書銘白磁など  
2007.10.~2007.12. 上水道工事区間(443㎡) 石垣址、敷石などを確認 青磁、粉青沙器、白磁など 緊急発掘調査
第3次 2008.03~ 2008.12. 寺域西側
(16,130㎡)
西側建物址に対する詳細調査。長方形建物址、石垣址などを確認 金銅菩薩坐像、金剛鈴、「大普願寺」銘瓦など  
石造-幢竿支柱周辺の寺域東側
(7,500㎡)
陶器大壷、鉄製釜、青磁折腰皿、唐草文平瓦当など
第4次 2009.04~ 2009.12. 寺域西側
(23,630㎡)
西側建物址に対する詳細調査。東側の石垣址、建物址などを確認 金銅如来立像、虎字蓮華文軒丸瓦、唐草文平瓦当、蓮華文塼、白磁鉢、青磁蓮蕾など  
寺域東側
(2,200㎡)
第5次 2010.05.~2011.04. 寺域西側(13,168㎡) 西側建物址に対する詳細調査。南西側一帯の建物址7基などを確認 金銅如来立像、虎字蓮華文軒丸瓦、白磁鉢、陶器の水瓶など  
第6次 2011.05.~2011.12. 寺域西側
(22,403㎡)
西側建物址に対する詳細調査。建物の台、南北一帯の下部建物址などを確認 虎字蓮華文軒丸瓦、宝相華文平瓦当、魚骨文系統の瓦、波文陶器瓶、鉄画文瓶、白磁鉢、青磁皿など  
第7次 2012.03.~2012.11. 寺域西側
(6,800㎡)
西側建物址に対する詳細調査。南西一帯の建物址などを確認 蓮華文塼、鬼瓦、鴟尾、陶器大壷の口縁および胴体部分、青磁折腰皿、白磁猪口など  
寺域東側
(36,746㎡)
建物址、石垣址、敷石施設などを確認 象嵌青磁受皿、青磁の植木鉢、日暈底青磁、陶器大壷、石製判子、魚骨文瓦など 試掘調査

image 瑞山普願寺址の全景(上:西)
image 瑞山普願寺址の寺域西側の全景(上:西)
image 副殿施設出土の文様・銘文塼(2012年)
image 寺域東側出土の主な磁器類(2012年)
image 寺域東側出土の主な磁器類(2012年)
image 寺域東側出土の主な磁器類(2012年)
image 寺域東側出土の主な磁器類(2012年)
image 寺域東側出土の主な磁器類(2012年)
image 寺域東側出土の主な磁器類(2012年)
image 寺域東側出土の主な磁器類(2012年)

扶余地域百済古墳の地表調査

百済・泗沘期の都城が位置していた扶余一帯では有史以来、移住勢力と土着勢力との交替により、様々な墓制が混在していたことが明らかになっている。現在まで確認された代表的な遺跡としては、陵山里、芝仙里、羅福里、楮石里古墳群などがあり、その他にも持続的な地表調査によりまだ知られていない数多くの百済時代の古墳が確認されている。とくに、扶余地方を中心に分布しているこれらの古墳は断面六角形の橫穴式石室墳である百済後期の墳墓形式を示している。したがって、これらに対する持続的な資料の蓄積は今まで知られてきた研究より豊富な資料を提供する可能性を提示している。同研究所が実施している古墳の地表調査は、乱開発されている様々な工事により損傷を受けている百済時代の古墳を含む多くの文化遺跡を、原型を失う前に現存する資料として対象地域に対する十分な資料を残し、今後の学術研究資料として活用することを目指している。今後、開発事業の前にこれらの遺構に対する保存対策を講究するための資料を蓄積することを目標としている。

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遺跡名 扶余地域百済古墳の地表調査
区分 遺跡地表調査
調査年 1992年~2003年
調査資料 原文資料無し

扶餘郡一帯における百済古墳の地表調査は、百済・泗沘期の中心地域である扶余郡に散在する百済時代の古墳の位置と現状を把握し、今後の学術研究資料および遺跡整備の基礎資料として活用することを目的としている。このような目的に合わせ、同研究所では1992年から毎年2つの面に対して百済時代の古墳に関する精密地表調査を実施し、2003年に窺岩面、恩山面一帯を最後に調査を仕上げた。


調査地域

扶余邑一帯(1992.12.14~12.19)
扶余郡・草村面、石城面一帯(1994.3.8〜3.20)
扶余郡・南面など(1995.9.18〜10.7)
扶余郡・草村面、石城面一帯(1997.2.13〜2.24)
扶余郡・外山面、林川面一帯(1998.3.23〜4.14)
扶余郡・忠化面、良花面一帯(1999.3.9〜3.30)
扶余郡・場岩面、世道面一帯(2000.2.12〜3.15)
扶余郡・南面、玉山面一帯(2001.2.12〜3.9)
扶余郡・内山面、鴻山面、九龍面一帯(2002.2.21〜3.20)
扶余郡・九龍面、恩山面、窺岩面一帯(2003.2.10〜3.7)


調査成果

扶余郡一帯は百済の最後の王都である泗沘都城の中心地であり、古墳や寺址など多くの遺跡が散在しているのでここでは百済時代の文化と歴史を感じることができる。とくに古墳の場合、長い年月の伝統をほぼそのまま受け継いでいくという保守性が高いので、古墳の発掘によりその構造や形式、遺物などから当時の生活像と精神世界、その時代を生きた人々の文化を示す重要な資料である。したがって、百済の古墳に関する研究は、当時の扶余地方における土着民の勢力の範囲や彼らの文化を知る上で非常に重要な手がかりとなる。

現在、扶余郡一帯で確認された百済の古墳群は日本の植民地時代に発掘調査された陵山里古墳群をはじめとし、計120ヶ所に達している。そのうち、同研究所が1992年から実施してきた地表調査により、扶余郡から70ヶ所以上の古墳を新しく確認し、それを纏めて4冊の報告書を発行した。同研究所が調べた古墳は、ほとんどが板石を利用して墓室を築造した百済・泗沘時代の横穴式石室墳であり、窺岩面・合井里•午水里•咸陽里一帯からは以前確認された扶余邑陵山里•塩倉里一帯の古墳群と類似した大規模の古墳群が見つかった。


image
image 陵山里・ヌンアンコル3号墳の露出状態
image 扶余・玉山面・鴻淵里・案山1号石室墳の露出状態
image 扶余・外山面・文臣2里九臣村4号墳の露出状態(北から)
image 内山面・温蟹1里ソチョン村石槨墓の露出状態(南から)
image 内山面・温蟹1里ソチョン村石槨墓の内部近景(南から)
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